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目が覚めてすぐ、窓の外を見なくても、あたりの静寂だけでわかる。
雪が降っていることが。 窓の向こうの景色は、テレビの音を消した画面のようだ。 近年は当地では、雪が降ることはまれになったけれど、今年は何かというと降っている。 子どもの頃は、東京でも雪がしょっちゅう降っていた。 雪を見るたびに思い出すのは、母が雪でつくってくれたウサギ。お盆の上に雪を盛って、赤い実の目と鮮やかな葉の耳をつけただけの簡単なウサギだったけれど、幼児のわたしにはとてもうれしかった。 あのウサギが融けてしまったとき、せっかく作ってくれた母に悪いことをしたような気持ちになって、哀しかった。 この思い出といつもいっしょに心に浮かぶのは、学校の工作の時間に作った模型飛行機。 竹ヒゴにロウソクの炎をあてながら、ゆっくりと曲げて、飛行機の翼の枠をつくり、薄い紙を貼るという、かなり手のかかる作業が必要な課題だった。学校の授業時間では作りきれなくて、宿題として家に持ち帰ったらしい。 こんなことが不器用なわたしに出来るわけはなく、器用な母が苦労をして、たいへんな時間をかけて作ってくれた。 感謝の気持ちと宿題をもっていける安心感でいっぱいになって、飛行機を学校に持って行ったのだけれど、登校の途中で片方の翼が壊れてしまった。 あのときの悲しみ、落胆。宿題を持って行けないことが悲しかったのではなくて、母の苦労を無にしてしまったことへの悲しみ、申し訳なさだ。 母は父とちがって、口うるさくはなく、子どもを叱ることも少ないが、かといって子どもを抱きしめたり、声高に大げさに可愛がることもない、物静かな人だった。 母の優しさは雪のウサギや模型飛行機を通して、ほのかに伝わってきた。 雪のウサギが融けたとき、飛行機の翼が壊れたときには、母のこの静かな優しさを自分が無にしたような、母の想いを裏切ったようで悲しかった。 母が生きている間に、このことを話しておけばよかった。 まあ、母親の立場にたって考えれば、子どもから感謝の言葉をもらいたいといった気持ちはないから、どうでもよいのかもしれない。 雪はまだ降り続いている。これを書き始めたときよりも、もっと降っている。 何の音も聞こえてこない。 外の世界から隔離されて、まったくのひとりぼっちの世界。 自分の内側の声に向かって、内側の声で話している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2017/01/15 09:28:51 PM
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