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フライブルク日記

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2018/02/20
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久しぶりに本を出しました。
2015年から2016年にかけて、100万人もの難民を迎えたドイツで、どのようなことが起こり、ドイツのおとなや子どもが、どのようなことを体験し、考えたのかを、物語のようにつづった本です。
小学校高学年から中学生向けの本ではありますが、おとなにも参考になることを念頭に書きました。
現在は、新たに入ってくる難民は減りましたが、難民の問題は解決したわけではありません。
シリアの紛争・戦争はいまだに続いていますし、アフリカからも多くの難民がヨーロッパに入ろうとし、途中で溺れ死んだり、リビアにとどめられて過酷なキャンプ生活を余儀なくされたりしています。
一方では、難民がヨーロッパ、ドイツに着いたからといって、仕事が誰にでもあるわけではなく、難民をかかえる自治体の方も予算があるわけでもなく、問題や不満は山積みで、難民に対する市民の感情や意見も大きくわかれています。
そんな中でも、難民と市民との交流、あたたかい友情関係、楽しい企画といった、小さな成功もあちこちで見られています。
わたし自身も、ドイツ人から見れば移民の一人です。頼みもしないのに、勝手にやってきて住み着いたガイジンです。
ですから、複雑な思いで、現状を観察しています。
命からがら逃げて来た難民の立場、異文化・異なる宗教や習慣を背景とする大量の人がいきなり隣人となったドイツ人の立場、両方の気持ちや状況を思うと、これだけが解決策、といったものがないこともわかります。
究極的な解決策は、そもそも難民が出ないような世界の状況をつくりあげることにつきるのでしょうが、それを誰が担うのか、、、。そのようなことが可能なのか、わたしにはそこまで言える資格も能力もありません。
まずは、この2年間にドイツでどのようなことが起こったのかを、ドイツ人たちがどんなことをし、どんなことが起こったのかを、難民や移民とドイツ市民との付き合いなどを、楽しい出来事も含めて、生き生きとお伝えできえていれば、幸いです。






Last updated  2018/02/20 09:43:20 PM
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2017/06/06
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20年前に訳出した「ネコの行動学」の復刻が出版された。

著者のライハウゼン博士は生前、日本にもたびたび訪れ、沖縄のイリオモテヤマネコの調査に同行したり、阪急動物園などで大型ネコ類の観察もされた。

わたし個人にとってはこの本は、運命を変えた本といってもおおげさではない。

大昔、結婚して一年ぐらいたった頃、元夫(当時はもちろん夫)のために、この本の原著の初版(初版はまだ論文のような形だった)を訳してあげるために、生まれたばかりの息子をお義母さんにあずけて、池袋のR学に学士編入して、ドイツ語を一から学んだのだ。
これがドイツ語、ドイツを知るきっかけだった。
この本がなかったら、ドイツ語を習おうとか、ドイツに来ようなどとは思わなかったはず。

ドイツ語文法をひととおり習った八ヶ月ぐらいの頃に、無謀にもこの初版を一行ずつ、ゆっくりゆっくり訳した。
その頃はまだ複雑な言い回しの意味もわからず、なにしろ知っている語彙がすくないので、一段落を訳すだけでも、数時間かかった。

その後、R大学を退学し、再入学し、ふたたび退学した(「もう絶対に入れてあげません」と言われた)。
そのあとしばらくたって、今度は娘を保育園にあずけて、渋谷の語学学校に、当時住んでいた山梨県のT市から特急「あずさ」で週に二回通った。
それでもドイツ語への興味やドイツへの関心はおさまらず、娘連れでドイツに留学した。
留学先がたまたま当地、フライブルクで、この町がすっかり気に入ってしまった。
ドイツ人の友だちもたくさんできた。

それで、ついにはこの地への永住を決めてしまった。
その間に、「ネコの行動学」の原著は版を重ね、ちゃんとした本の形になっていた。
それを二十年前に「正式に」訳して出した。

時間がたつのははやい。
30年以上前の留学のときに、わたしについてきた娘は5才から6才になるところだった。
そしていま、娘の長男は6才になった。

もし「ネコの行動学」がなかったら、わたしはドイツにもフライブルクにも来ることはなかったと思う。
ということは、娘の子どもたち(ドイツ人とのハーフ)も生まれてなかったはず、ということになる。

運命の分かれ道って、おもしろい。

ちなみに、この「ネコの行動学」に書かれていることは、いまでも十分に通用します。
先日テレビで、現代の行動学者たちが、GPSや自動ヴィデオ装置などの技術をつかって、イエネコの外での行動(なわばりとか行動圏とか、他のネコとの付き合いとか)を調べた様子を見たのですが、ライハウゼンがこの本で観察し、推論していることが、確認された部分がたくさんありました。
ネコの飼い方を書いた本ではなくて、イエネコや野生ネコ類の行動を細かく記述し、しくみや行動の理由をときあかしているところが、他のネコの本とちがうところです。

復刻にあたって、著者の未亡人や娘さんとメールを交換したり、電話で話すことができた。
娘さん(といっても定年まじかな学者)とは、今度もう一度電話で話すことになっている。
こういう出会いもおもしろい。偶然って、わくわくする。

(余談)R大学は当時も華やかだったけれど、15年ぐらい前に、環境の話をしに、久しぶりに伺ったときは、もっと華やかだった。スターのようにおしゃれを決めて、完璧にお化粧をして、長い髪をモデルのようにフンワリさせたお嬢さんたちがいっぱいなので、おばさんのわたしは身をちぢめたわ。
「環境」が専攻だったあのお嬢さんたち、今はどうしていらっしゃるのかな。






Last updated  2017/06/06 11:10:35 PM
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2016/09/22
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ドイツでは食料品はかなり安いのに、本と下着はやたらに高い。
たとえば純生クリーム200mlは安いもの(十分おいしい)だと50円以下で買えるけれど、ハードカバーの小説は2000円から4000円、新書判になると1200円から1500円で買える。だから新刊の小説はすぐには買わずに、新書判になるまで二、三年待つ方が経済的ではある。

それでも誘惑に勝てなくて、雑誌「シュピーゲル」の書評で誉められていた、新刊の小悦を二冊買ってしまった。一冊はドイツ人女性のもの、もう一冊はアイルランド人が書いた本(ドイツ語訳を購入)。

前にも書いたことがあるけれど、読んでいる間はワクワク、ハラハラ、ドキドキし、話の展開を知りたくて、眠るのも忘れて読みつづけるくせに、最後の一文を読み終わったときに、いつも一瞬、むなしい気分を味わう。
この話はすべて作り話なのだ。誰かがパソコンの前で、あるいは白い紙の前で、考え、考え、一つ一つの言葉を吟味し、想像力と創造力を投入して書いた、架空の話だったのだという事実を突きつけられる気分。
それまで頭の中で生きていた登場人物たちの姿がかすんで消えていく。
これらの登場人物は存在などしていないのだから。

不思議なのは、本を読んでいる間、読み終わる前までは、登場人物はわたしの頭の中で生きているということ。
テレビのドラマや映画も同じだ。
わたしたちは、ドラマや映画が俳優によって演じられていると知っているのに、これらを見ている間は、まるで登場人物が本当に存在し、本当にドラマの中でのような生活をしているかのような錯覚に陥って、主人公の人生がどうなるかなど、本気で心配したり、同情したりしてしまう。
ある時、撮影現場の風景を並行して見せながら、ドラマが進行する番組があった、つまり作り話であることを常に見せながら話が進んだのだが、それでも見ている者は、ドラマの成り行きにひたってしまう。

どうやら、人間の頭は、目の前に見せられる光景や本などで読む話を、いわば反射的にそのまま認知する傾向があるようだ。「理性」が「これはフィクションだよ、嘘の話だよ」と知っていても、感性は目の前で演じられている光景や小説で描かれている出来事を、見せられるままに受け取ってしまうのだ。

小説が「私小説」だったり、自伝的な小説とされている場合は、読後感のむなしさが少ない。
読んだ話は作り話ではなくて、多少なりとも本当に誰かが経験したことだと思うと、安心したりして、、、。
じゃあ、ノンフィクションとか自伝ばかり読めばよいではないかと思うけれど、実際には、目の前に新刊書、新しい作り話が並ぶと、どうしても読みたくなる。

そういえば、知人(ドイツ人、日本人を問わず)の中には小説のようなフィクションはほとんど読まず、趣味の本とか実用書、ルポなど、ノンフィクションばかりを読む人もかなりいる。
こういう人は最初から、フィクションの読後感のむなしさを知っているんだろうか。







Last updated  2016/09/22 11:27:40 PM
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2015/01/05
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日本語の本を読む機会はとても少ないです。

日本に出かけることが少ないし、たとえ出かけても、興味深い本を短時間で探し出すのはむずかしいし、そもそも本は文庫本以外は重いので、持って帰る荷物の優先順位では、食料品より下位におかれてしまいます。

それだけに、Ameliaさんからいただいた贈り物小包の中に




を見つけたときには、歓喜してしまいました。

わたしが多和田さんの作品を好きなことが、どうしてAmeliaさんにわかったのかしらと一瞬思いましたが、そういえば最近の記事で、最後にちらっと多和田さんの本を買いたいと書いたことを、一晩寝てから思い出しました。わたしもボケてるねえ。
そんな小さなことを覚えていてくださったAmeliaさんのお心遣いがとてもうれしいです。

いただいて、すぐに読み始めました。
わたしは一人で食事をするときには、いつも本を目の前に立てかけて、本を読みながら食べます。だから、トーストからチーズが落ちてしまったり、ジャムがたれたり、たいへん。でも一人なら、誰も見てないから大丈夫(あとで掃除がたいへんですが)。
パンを仕込んでいる間、オーヴンで焼いている間も読みました。

表題の「献灯使」をはじめ他の収録作品も、いわばフューチャーフィクションとでもいいましょうか、数世代後の日本、鎖国をし、コンピュータも自動車もなくなり、食物を国内で自給しながら生活する日本を描いています。自給だから、農業がほとんどできない東京は貧しくなり、農業が盛んな沖縄や東北が豊かになるわけ。
それでもそこに生活する人々はみんなお互いにやさしくて、社会は今よりもずっと人間的で、物質的には貧しくても、もしかしたら今よりも幸せのようにすら、感じられてきます。
あり得ないようなフィクションなのに、もしかしたらあり得ると思えるほど、リアルです。

この本は、現代の社会、政治、環境、習慣の風刺であり、批判でもあるのですが、批判が表面に出ているのではなく、言葉のたくみさ、ウイット、ユーモアにあふれた物語の底から感じられるだけです。
読みながら、アハハ、アハハと一人で笑ってしまうことがしょっちゅう。だっておかしいんだもん。
いつまでも終わって欲しくないような、面白い物語。

どこからこんな面白いアイディアが浮かぶのでしょう。アイディアが浮かんだだけではすぐれた作品にはならないでしょうが、多和田さんの文章のわざにかかると、それがすばらしい作品として実を結ぶのですね。

あんまり面白いので、BFにも伝えたいけれど、内容をこうやって話すだけでは何もわからないでしょう?
やっぱり自分で読んでもらわないとね。
ぜひ、ぜひドイツ語版でも出していただきたいけれど、だめかなあ。日本独特の事情とか、日本に住む人でないとわからない言葉のユーモアとかがあるから、こういうとき翻訳小説はもどかしいです。

あ、そういえば、多和田さんの作品が好きと書いたブログ記事で、村上春樹の本「ダンス、ダンス」のドイツ語版を読みますと書きましたが、その後読み終わりました。
やっぱり、予想どうりというか、感激はしませんでした。こので本もシュールで非現実的なことが起こりますが(羊男とか幽霊みたいなのとか)、それが出てくる説得性に乏しいし、主人公の「僕」の考え方や生き方も一貫性に欠けているし(世捨て人みたいなこと言ってるくせに、やたら世俗的)。
所々に凡人では書けないようなむずかしい、込み入った、知識人ぽい文章が出てきて「ホホー」とか思いましたが、それ以外には感動も、面白かった感もありませんでした。

本は好みの問題で、どれが上とか下とかは言うべきだとは思いませんが、わたしは多和田葉子さんの作品の方が好きです。
言葉の選び方も文章も、プロットも好きです。「犬婿入り」以来ずっと。

すばらしい本を選び、プレゼントくださったAmeliaさん、本当にありがとうございました。







Last updated  2015/01/05 11:59:38 PM
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2014/11/17
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一ヶ月以上前の誕生日にBFの姉から、近所の小さな書店の商品券をたっぷりいただいた。

一番大歓迎のプレゼントだ。どんな本を買うか、じっくり検討しようと思っている内に時間がどんどんすぎ、ついに読みたい本がなくなって、やっと書店に行ってきた。良質の本が並び、店員もよく本を読んでいて、お客の質問にていねいに答えてくれる、いまどき貴重な存在のお店だ。
本はネットで買わずに、なるべくこういう地元の店を応援しよう、と友人・知人にもこの店の商品券をプレゼントするよう、心がけている。

今、アリス・マンロー(昨年ノーベル文学賞を受賞したカナダの83才の女性作家)の作品にすっかりはまっている。彼女は短編しか書かなかったために、受賞が今頃になったというけれど、短編でも中身がつまっていて、読後には長編小説を読んだような気持ちになる。
どの作品でも、ことさら大きな事が起こるわけではない。それなのに、先へ、先へと読まずにはいられなくする力がある。
気がつくといつのまにか、読み始めた最初には想像できなかった状況に展開していたり、登場人物の人生がすっかり変わっていたりして、読み手の自分がその人生を歩んできたような気持ちにさえなる。
センチメンタルな月並みな描写や余計な会話はすべて省かれている一方で、細々した日常の描写、ちょっとした出来事のくわしい記述を通して登場人物の心や性格が浮き出されてくるのも、スリリングとすら言える。
話が進む中で、語り手(というか、登場人物の内の誰の目で見た状況が描かれているのか)がひょいひょい変わったり、一つの段落の中でも、語られている時代が前後することがあるので、油断ができない。

ノーベル賞受賞後にドイツ語版が出された「Dear Life」は著者自身が「これが最後」と宣言した本で、最後の4章は「フィナーレ」としてまとめられ、心理的には自伝的な部分が込められているとされている。
ドイツ語版は夏の頃にはまだハードカバーしかなくて高かったので(ドイツでは食材は安いのに、本はとても高く感じる)、安い英語版のペーパーバックを空港で買った。
それ以前に他三冊ほど、過去の作品をドイツ語版で読んでいたが、英語版を読むと、やっぱり知らない表現が多く、しばしば文章も謎めいていて、何度か読み返してやっと意味が納得できたりして、時間がかかった。それでも、原文を読むというのはやっぱり大事なんだろうな。雰囲気が違うから。
今日は新たにマンローの過去の作品を三冊買ってきた。楽しみだー。

商品券にはまだ余裕があったので、他に二冊探した。

村上春樹は日本では賛否両論に大きくわかれるそうだが、ドイツでは大人気だ。とくに女性には年齢には関係なく人気がある。
この書店の若い女性店員もファンらしくて、去年『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」が出た時にも、「すばらしい、ぜひ推薦します」と熱心だったものだ。新聞での書評はイマイチだったけど(「この作品の心情は日本人には理解できるかもしれないが、ヨーロッパ人には伝わらない」とかなんとか書かれていたことがある)。
先日、あるパーティーで隣の席にすわっていた女性(地元新聞の地域記者だった人)も、「ハルキ・ムラカミはすばらしいは。話が月並みでなくて、奇怪な別の世界をもっているから」と言っていた。
うーん。日本人男性が描くシュールな世界が西洋人女性の心を捉えるのだろうか。

昔、「ノルウエーの森」を読んだときには、同世代のもつノスタルジーに同感できた。主人公が次々とモテてしまうのは調子が良すぎるけれど、娯楽小説のように楽しめもした。
「羊をめぐる冒険」もいちおう読んではみたが、わたしの平凡な頭には通じなかった。
「国境の南、太陽の西」がこちらでとても話題になって、これを巡る評論家どうしの喧嘩のために、大好きだった文学番組がなくなったときには、まず、すぐに手に入るドイツ語版を読んだ。性的な場面が描かれる問題の箇所が問題だとは思わなかった。
ところが、後にこれを日本語版で読み直したときには、ちょっとびっくりした。雰囲気がまるで違って、どことなく稚拙で、文章に説得力がなかったからだ。(自分のことはさておいて、他人が書いたものには何とでも言えてしまうけど)
ドイツ語版の方が全体として「おとなっぽい」文学になっているところが面白い。
そもそも、翻訳というものには限界があると思う。
言葉はその意味だけではなく、ある雰囲気や人間関係の微妙さをも表現するからだ。
たとえば、若い女性がボーイフレンドに向かって「xx、何を考えてるの?」というのと「xx君、何を考えているの?」というのでは微妙に違うでしょう。女の子が男の子に「君」をつけるか「さん」をつけるか何もつけないかでは。
これが英語版やドイツ語版だったら、差がつけられないのではないか。「国境の南、、、」のドイツ語版は誰かにあげてしまったので、確かめられないけれど、たぶん。この例にかぎらず、文章から受ける登場人物の人柄が、日本語版とドイツ語版ではかなり違ってしまうのが、面白いといえば面白い。
英語とドイツ語では同じ西洋語だから、これほどの差はないかもしれない。どちらの言語も私にとっては母国語でないので、違いがわからないのかもしれないけれど。

まあ、大して読みもせずに「村上春樹はあんまり好きじゃない」と言ってしまうのは気がひけるので、一冊買うことにした。
お値段との兼ね合いで、「ダンス、ダンス、ダンス」のドイツ語版(ドイツ語版タイトルは「羊男とのダンス」)を購入した。

そして最後の一冊はミレナ・ミチコ・フレシャールという作家の「彼のことをネクタイと呼んだ」という意味のタイトルをもつ薄い本。
著者はオーストリア人の父と日本人の母からオーストリアに生まれ、育ったらしい若い女性だ。
本をレジにもっていくと、若い女性店員がこの本を見て、顔を輝かした。
「この作品、とってもすばらしいです。心情が繊細に描かれていて」
この作品を作者自身が日本語にしたら、どういう感じになるのか、知りたいところだ。

そういえば、芥川賞その他数多くの賞を受賞している多和田葉子さんは、30年以上前からドイツに住み、日本語とドイツ語の両方で書いている。
けれども、いくつかの日本語で書かれた作品のドイツ語版は別の人が訳しているところが、おもしろい。
やっぱり最初から一つの言語で書くのと、それを訳すのとでは、まったく状況が違って、同じ作品を二つの言葉で書くのは無理なのだろうか。
わたしは彼女の作品が好きだ。今度、日本に行ったら、最近の作品を買いたい。







Last updated  2014/11/19 06:03:26 AM
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2014/05/21
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娘夫のお母さんの誕生日に贈るために、近くの本屋さんに注文に行きました。

Amazonはできるだけ利用しないようにしています。色々気になる点があるし、なんといっても、地域の良質の小さな本屋さんを応援したくて。

本を注文してすぐに店を出ればいいものの、つい平積みしてある本を眺めてしまい、分厚いペーパーバックの推理小説(エリザベス・ジョージが2012年に出したヤツ)を手にとってしまいました。

裏付けを見ると、この作品のペーパーバックは今月出たばかり。じゃあ、まだ読んだ事がないはず。一応は内容の紹介は読みましたが、とんと記憶がないので、買ってしまいました。

帰宅して晩になって、いそいそと読み出してみると、最初のページでもう「あっ」と気がつきましたね。
これは読んだ事がある。

でも、なぜ?ハードカバーはものすごく高いので(ふつう2500円から3000円)、すぐれた小説などは時にハードカバーを買うことはあっても、推理小説(二度と読み直さない)はペーパーバックになってから買うことにしているのに。

どうやら、このクリスマスにこの書店の商品券をプレゼントにもらったので、気を良くしてハードカバーを買って、読んで、友だちにすぐに回して、忘れてしまったようです。

読んだ事がある推理小説をまちがってもう一度買うことはよくあって、その度にすっごくくやしい思いをします。普通の小説だと、すぐれたものは何度も読みたくなるけれど、推理小説だけはね、何度も読む気はしませんね。

ところで、この書店の店員女性は村上春樹のファンだそう。そもそも、ドイツでの村上春樹ファンには女性が多いようです。
最近ドイツ語版が出た「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」は、一時はベストテンの上位を占め、いまだにベスト18位ぐらいで売れています。この本も彼女はすぐに読んで感激したんだそうです。

この作品に対するドイツの書評は賛否両論にはっきり分かれています。ファンはぞっこん褒めるけれど、別の人は粉々にけなすの。どちらにも理由があるのでしょうから、いつかは読んでみようと思いますが、これね、ドイツ語と日本語とでは、全然雰囲気が違うはず。

前に「国境の南、太陽の西」を日本語で読んだときには、「なんじゃ、これ。女性週刊誌の小説みたい」と思ったのですが、ドイツであんまりに取りざたされたので、ドイツ語で読んでみたら、文章がかなりおとなっぽく響くから不思議。

先月、博多に行ったときに駅の書店で「色彩を持たない、、、」の日本での反応を聞いたら、店主さんらしき方は「褒める人は褒めるし、他方では『内容はニ、三行で書き尽くせ手しまう』って言う人もいるし、やっぱり好きか嫌いかにはっきり分かれるねえ」とおっしゃっていました。同じなんだね。

日本でも文庫本になるのはまだ先らしいし、ドイツでもペーパーバックになるのはいつのことか。そうなってから買ってみるかな。

ところで、先日、BFが道ばたで拾ってきた本の中に、カズオ・イシグロ(日系イギリス人作家)の「Never let me go」がありました。
読み出して見ると、英語だというのに(時に知らない単語あり)ぐんぐん引き込まれ、頭がくらくらしたほど。
題材というか状況設定がすごいからかもしれません。
ドナーとして使うためにクローンでつくられ、寄宿者学校で育てられた若者たちが主人公。心の動きや性格が行動にどうあらわれるかが、とても繊細に描かれています。背景には、主人公たちが、成長するにつれて、いずれドナーとして死ぬ運命にあることを自覚していく過程があります。淡々と描かれているけれど、恐ろしい設定です。
そういえば、家畜もこの主人公たちと同じ運命で生きているわけだと思うと、世界が違った目で見えてきて、目眩がするのです。

この作品も映画化されたそうですが、それより以前に映画化された「日の名残り」も深い印象に残っています。
こういう本はね、推理小説と違って再読したくなるかもしれないし、たとえ再読しなくても、決して忘れないんですよね。

カズオ・イシグロさんは、日本の作家には影響を受けたことはないそうですが(そもそも日本語は話せない方)、村上春樹だけには興味をもたれたそうです。でも、お二人の作風はぜんぜん違うと思います。ただし、イシグロさんの小説は原著が日本語でないので、正確にはくらべられませんけれど。
私はイシグロさんの作品にシンパシーを覚えます。






Last updated  2014/05/22 05:26:13 PM
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2013/09/27
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本書の原書タイトルは「 Running with the Pack:Thoughts From the Road on Meaning and Mortality」。「群れと走る‥・ランニングから得た、意味と死についての思考」といった意味で、この 「群れ」とは、著者の前作「哲学者とオオカミ」の主人公でもあったブレニンという名のオオカミをはじめ、子ども時代から現在にいたるまでに著者のランニングの連れとなった、さまざまなイヌたちのことである。

「哲学者とオオカミ」では、若き大学教官としてアラバマ大学に赴任した著者と彼の友となったオオカミ、ブレニンとの生活が、アラバマ、アイルランド、ロンドン、フランスを舞台にして綴られ、その中で人間、生きること、幸福などについて、著者が哲学的な思考をめぐらした。
その著者が今回は、アマチュア・ランナーとして登場する。彼はブレニン亡き後、アメリカのマイアミ大学に哲学教授として就任し、結婚して二児の父親となった。そしていま、五〇才という年齢を前に身体の衰えを意識しながらも、生まれてはじめてのマラソンを走ろうとしているのだ。
本書の「ストーリー」の一つは、著者がトレーニング不足、ふくらはぎの肉離れなどのハンディキャップをもちながらも 挑んだマイアミマラソンの体験、その過程で刻々変化する精神や肉体の状態、そこに訪れるさまざまな思考である。このマラソン体験を軸にした二つの 章の間に、さまざまな時点、土地、状況を 舞台にしたさまざまな走りの場面の 章がつづく。 愛犬とともに故郷ウェールズの山をかけ登り、一日じゅう止まることなく走り、走らずにはいられなかった少年時代、オオカミのブレニンやイヌたち とともに走ったアイルランドの急な坂道、マイアミシティーでの、「アメリカン・ドリーム」を観察しながらのランニング、新しい愛犬とともに走るマイアミ郊外のジャングル、かつて、死を迎えたブレニンとともに走り、いま 、ふたたび走る南フランスのラングドック地方 。どの章でも著者は、それぞれの舞台背景にまつわる逸話や観察がウイット(時には皮肉も)やユーマをこめて語 りながら、これらの話題をきっかけに思考を進め、アリストテレス、プラトン、ショーペンハウアー、シラー、サルトル、ハイデッガーなどさまざまな哲学者や思想家の説や考えを取り入れながら 、ときには奇抜とも思える独自の考えを発展させていく。

そのほか、ミッドライフ・クライシス、老いや衰え、若さの自由、ヨーロッパ人である著者から見たアメリカ人の国民性、大きな尻をもつサルとしてのヒトなどなど、多種多様なテーマが、ユーモアと真剣な哲学とがミックスした形で扱われる。ランニング自体に関する記述もたっぷりあるのは、もちろんである。

けれども、本書を最初から最後まで貫いているテーマは「内在的な価値」である。よく出される疑問、「人はなぜ走るのか」という疑問への 答えとして、著者は内在的な価値、つまり、あることが別の何かのためにもつ価値ではなくて、それ自体でもつ価値の重要性を指摘している。ランニングには健康、友好関係、若返りなどなどいくらでも 効用、つまり「道具的な価値」があるとしても、究極的には自分は走ること自体のため、内在的な価値のゆえに走るのだと著者は明言する。

日本のいわゆる「オタク」の活動も「内在的な価値」にひたることと言えるかもしれない。わたしは「パンオタク」の末席に位置する。わたしにとっては、パンを焼く目的は食べるためというよりも、焼くこと自体にあり、焼いたパンの大半は他人の口に入るかパン粉になる。 焼くために、焼きたいから焼く人はたくさんいるだろう。しかも、この行為は本書の著者がランニングについて語っているのに似て、いつも楽しいわけではなく、時には面倒だったり、苦しかったりするが、それでもオタクたちはこれをする。楽しみとは異なる、もっと深いところにある喜びにひたるのだ。オタクたちには、 内在的な価値がどういうものか、よく理解できるだろう。

著者は「内在的な価値をもつもの」は仕事ではなくて、「遊び」だと言明している。どのような行為でも、他の何かのため、別の目標をめざして行なわれるのは仕事であり、一方、それ自体をすることが目的や動機で行なわれる(たとえ、それが他のことにも役立つとしても)ことが遊び、というわけである。 遊ぶためにわざわざ遊ぶのが遊び の神髄だからだ。著者は「遊びは人生を骨折りがいのあるものにする」と言ってのける。「仕事などしないで、遊び暮らせ」と提案しているわけではないが、 労働の神聖化に同意していないのはたしかだ。

あらゆることが経済的な価値で測られるようになった現代においては、「あらゆるものが何か他のことのためになされるべきだとされる」ようになった。あることが別のことに役に立つのでなければ、すべきではない と考える風潮すらある。 著者はこのような物事の有用性や道具的な価値ばかりを重んじる傾向に対し、「道具的な価値に支配される人生は、 あることを他の何かのために追いかけることで費やされる人生だ」「人生におけるあらゆるものの価値がその目的にある、という考え方は、人生の意味を見つけるのを不可能にする」と指摘し、「そうではなく、人生における『善』なるもの(それ自体で内在的な価値をもつもの)を見つけよう」 「それ自体のゆえに重要であるものに触れれば、このような追い求めをしばらくは止めることになる」 と提言している。そして、著者にとっては、走ることこそが遊びの一つ、内在的な価値の具現化だという。

そもそも、著者が過去二〇年になし得たシリアスな思考のほとんどは、走っているときに訪れたもので、著者にとっては、走ることと哲学することは離れ難くむすびついているという。彼は、走ることは人生で何が大切で価値があるかを理解する方法の一 つだと言ってのける。こうまで言われると、これまでランニングはおろか、ジョギングすらしない わたしでも、ランニングに興味をそそられる。長距離を走っているうちに、著者が体験したような心と身体の葛藤とか、分離が起こるのだろうか。理由と原因との境界線を感じるような境地に入るのだろうかと。いやいや、そのようなことを知る「ために」走るのなら、それはすでに内在的な価値ではなくなってしまう。著者は「走るのに理由はいらない」と言っている。

一方、ランニングやマラソンをすでにしている人は、自分のランニング体験、長くて苦しい道のりの中で自分に起こることを、著者が語るようなプロセスと引きくらべてみることもできるのではないか。トレイルマラソンをしている我が息子に本書を読ませて、結果を聞いてみたいところだ。マラソンをする人に、著者が次のように語ることを、どう思われるかを訊いてみたい。「走ることは回想の場だ。いちばん重要なのは、それが他者の思考を思い出す場所ではなく、わたしがとうの昔には知っていたのに、成長の過程や何がしかの者になる過程で忘れざるを得なかった、何かを思い出す場だということだ。・・わたしたちが走ることの意味を見出すのは、この場所なのである」。


ランニングではなくても、自分がしたいこと、自分が好きなこと、それ自体のために何かをすること、つまりは遊ぶことで、内在的な価値にひたることはできるだろう。自分の生活をふりかえって、自分がどれだけ「内在的な価値」があることをしているか、内在的な価値があることをする喜びにひたっている瞬間がどれだけあるかを考えてみるのも興味深い。「若さは生物学的な年齢の問題ではない」「若さは活動が遊びになるとき、それ自体のために何かをするときには、いつでも存在する」という言葉に励まされて。

「何のために生きるのか」「人生の意味は何なのか」という疑問は、だれもが一度は考える疑問だと思う。それに対する唯一の答えなどないのかもしれない 。著者は「人生で大切なことは、わたしたちが目ざす到達点ではなて、一つの人生のいたるところに散在するものであり、喜びが外からわたしたちをあたためてくれる瞬間に存在する」と言う。これだけで十分なのかもしれない。

著者のブログ(http://rowlands.philospot.com/)では、彼自身の写真、活動報告、マスコミでのインタヴュー、近況などが紹介されている。コメントやメールを著者に送ることもできる。わたしも本書中の不明な箇所について、メールで問い合わせたところ、すぐに気さくなお返事をいただいた。






Last updated  2013/09/27 07:52:37 PM
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2013/05/29
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本の紹介です。

この本の作者、エステル・ゴンスターラさんは、若い女性デザイナー。
前作、「インフォグラフィクス原発」に続く、二作目の「おとなの絵本」です。

ちなみに、ゴンスターラさんは六月には来日されるそうです。

この本は、気候変動、つまり地球温暖化の原因、実情、そしてや気候変動の結果、世界で起こっている出来事を、グラフでつづり、わずかな文でわかりやすく説明しています。

熱帯林がどんどん消え、オゾンホールもますます広がり、氷河や北極の氷塊はどんどん溶け、南の島はますます海に沈み、、、と世界の状況がどんどん変わっている様子をグラフで見ることができます。

このように、地球の状況が人間の生活にとってもますます不利になるように変わってきていて、、わたしたちがそれほど意識しないのは、原因となる国と、その結果があらわれる国が違うこと、そして結果はずっと先になって出るために、わたしたちには意識しにくいからかもしれません。

物やエネルギーを浴びるほど使う生活、物をつくり、消費し、捨てて資源を消費し、排気ガスを出すことで成り立つ経済、ぜいたくな食生活(たとえば、肉の生産のために、究極的には熱帯林がこわされる)が気候変動の原因だと言われても、ふつうはピンとこないし、気候変動の現象はたいていは南の国に激しくあらわれるので、わたしたちにはピンきません。

それに、まだまだそれほど現象はあらわれていないから、時間的にもピンときません。

ピンときたときには、もう後戻りできない状態になっているかもしれないけれど、そのときには、わたしたちのほとんどはもう生きていないわけだから、そんな日のために、心配をするなんて、、、、、ということにもなります。

人間の想像力というのは、とても限界があります。
目の前の並木を見て、「これが倒れたら怖い」→「危ないから切ってほしい」と思ったり、「中毒になるのが怖い」→「抗菌剤や保存材がほしい」となったり、鳥インフルエンザへの恐怖はあっても(これらで死ぬ確率は自動車事故より小さくても)、未来におこる大きな危険とか、いつ起こるかもわからない事故への恐怖は認識しにくいのです。

この本を読んで、つくづく、子どもたち、子どもたちのまた子どもたちの未来が暗いことを意識しました。

わたしの世代は戦後に生まれ、もしかしたらまたやってくるかもしれない大きな戦争前に死ぬ確率の高い、平和な時代を生きることができた世代です。

それに、気候変動の大きな影響や、世界中でいつかは破綻する経済(国々の借金だけでもたいへんよ)とか、海から魚が消えることもたぶん経験しないで終わるでしょう。

わたしの世代は本当に運が良かったのです。

でも、今の子どもたち、そしてこれから生まれる子どもたちの将来は、、、と思うと、心が痛みます。
わたしたちの世代が長期的な想像力や長期的な未来を考える政治や経済を実行していないために、次の世代やそれ以後の世代が苦しむわけですから。

それでもね、人間って(わたしって)、想像力が弱いし、神経がずぶといから、何も大きなことは実行していません。

この本にも最後に「行動しよう、いますぐに」とわたしたちが気候変動防止のために日常生活でできることが絵入りで書かれています。
省エネ、節水、国産の食材を買う、歩く、肉を減らす、、、、などで、こういうことはまあまあ日々実行しているとしても(といっても、たまには飛行機に乗ってしまうし、肉も食べてるし、、、)、世界の大きな趨勢を変えるため何かしているわけではい自分をふりかえると、
「孫子の世代が心配」などと口先だけで言ってるだけだよなあ、、、。

それでもそれでも、まずは世界で何が起こっているかを知るのもたいせつ。

それをこのグラフィクスは「字」というよりも、グラフや絵で簡単に解説してくれるところが嬉しいです。







Last updated  2013/05/29 07:45:49 PM
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2013/04/01
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この本では、福島事故後に「エネルギー転換」への道を踏み出したドイツのエネルギー政策とその背景、転換を実現するためのさまざまな具体例、それにまつわる障害や問題を紹介しました。

エネルギー転換というのは、単なる脱原発ではありません。 脱原発だけなら、石炭や褐炭の発電を増やせばよいのですから、実行は容易でしょう。けれども、それでは温室効果ガスの排出が増えてしまい、気候変動(地球温暖化)を助長してしまいます。そこで、気候変動防止も考慮に入れて、化石燃料利用から再生可能エネルギー(自然エネルギー)源利用に徐々に変えていこう、というのがエネルギー転換の目標です。

これを書き終えた時点では、ドイツの消費電力の約25%がすでに再生可能エネルギーで発電されるようになりました。2011年に原発8基が止められたにもかかわらず、2012年のドイツの発電量は消費量を二三〇億キロワット時も上回り、これまでで最高の電力輸出過剰を記録しました。しかも、化石燃料による発電は、二〇一一年に原発八基を止める前にくらべても増えませんでした。「原発を止めれば、化石燃料による発電が増える」という懸念はまずは杞憂に終わり、再生可能エネルギー発電が電力供給をささえていると言うことができるでしょう。

 ただし、転換政策が決まって以来、 急速に再生可能エネルギー発電が活発になったというわけではなく、それ以前から有志の市民、農家、自治体が地道に風力、太陽光、バイオガス発電などを実現させてきたことが、実を結びつつあるのだと思います。もちろんその背景には、再生可能エネルギー利用を実現しやすくする制度がある程度は整っていたという事情もあります。そして今回、現政府が自らエネルギー転換を政策に掲げたことで、再生可能エネルギー利用がこれまでのマイナーな存在から、いわば 国策として認められたと言うこともできるでしょう。

だからといって、 エネルギー転換への道がすらすらと進んでいるわけではありません。決断をした政府自身がエネルギー転換に逆行するような政策をとることもありますし、達成のための方法についても立場や見方、利益関係によって 意見がわかれます。利潤の大きい石炭/褐炭発電をこれからも続けようとする電力大企業にとっては、風力や太陽による発電の大成長は邪魔になりますから、時には再生可能エネルギー発電を抑制しようとします。

送電網の拡張や再生可能エネルギー発展を奨励するためのコストは、一般消費者の電力料金に上乗せされるために、再生可能エネルギーの発展にともなって電力料金が値上がりし、その結果、一般からの反発も生まれます。
再生可能エネルギー発電の状況に合わせて運転したり止めたりできるガス発電の拡充が必要なのに、経済的にペイしないために、なかなか建設されないのだと言われます。こういうニュースを聞けば、市民はがっかりし、「やっぱりエネルギー転換は無理」と短絡的な反応をするかもしれません。

それでも、「第四の革命」への希望の光はあちこちに見えています。再生可能エネルギー100%をめざす自治体、バイオマス/ガスで電力供給する村、エコ電力を提供する数々の電力供給会社、再生可能エネルギーに投資して財テクにする市民、省エネ住宅やビルを建設する建築家、再生可能エネルギー電力をガスに変える技術研究を追求する科学者など、数えきれないほどのすばらしい事例があります。
こうした力がさらに発展すれば、数十年後には 熱や動力源も含めたエネルギー需要を再生エネルギー源でカバーするという夢も実現可能なのではないでしょうか。技術的には可能だという調査結果がすでに何回も出されています。必要なのは政治的意志、実現を可能にする枠組みづくりだというわけです。

そして、政治的な意志は民主主義の国では市民が決定するのですから、問われるのは、最終的には市民の意志です。どのような社会に住みたいのか、孫子の世代にどのような地球を残したいのか。ただ「原発は怖いからいや」と拒否するだけでは足りず、それに代わる方法を自らも積極的に提言したり、望ましい対策を支持したり、自らも省エネや再生可能エネルギー利用に参加することが必要なのだと思います。

日本にはうらやましいことに太陽光も風も地熱も波力も、そして省エネの余地もたっぷりありますから、エネルギー転換への条件はドイツよりも恵まれているのではないでしょうか。地震の危険を考えれば、転換への動機づけも大きいはずです。「資源のない日本には原発は絶対必要」という論は,長期的な視野に立てば成り立たないでしょう。原発事故や核廃棄物によるコストや健康や経済への影響を考えれば,長期的には再生可能エネルギー利用や省エネのほうが安くて安全なはずです。連邦環境省のために出された研究によると、エネルギー転換が計画どおりに進展すれば、化石/核燃料を利用すると仮定した場合にくらべて、2050年までに5700億ユーロ(60兆円以上)が節約されるそうです。ですから、再生可能エネルギー源利用を発展させるために現在は研究費や設備投資がかかっても、長期的には経済的にも安くつくというわけです。これは日本にも当てはまるでしょう。

 とはいえ、わたしは「日本はドイツのまねをしてください」と言いたいわけではありません。「日本でもエネルギー革命は実現できます」と励ましたいのです。そこでは、日本なりの長所を生かし、日本人の民族性に対応した独自のエネルギー政策が望まれるのはもちろんです。本書では、自然資源の少ないドイツでも自然エネルギー源によるエネルギー革命は夢ではないし、脱原発も絵空事ではないことを示し、そのためにはどういう枠組が必要で、どういう落とし穴があるかといったことを語ることで、日本でのエネルギー供給/転換を考える上での参考にしていただくことを意図したのです。






Last updated  2013/04/01 06:38:56 PM
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2011/07/08
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【送料無料】インフォグラフィクス原発

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価格:2,310円(税込、送料別)



6月末に、久しぶりに訳書を出しました↑。

ドイツ人の女性デザイナーが作った本。
といっても、読むよりも「見る」が主体の本。

世界中の原発、核兵器、核実験の実態や数字が一目でわかるように、絵やグラフで示され、データの解説がつけられています。

原発の是非を正面から論じるのではなく、あくまで事実や数字だけを出して、読者に自分で考えてもらおうというのがねらいのようです。

この本はドイツで2009年に「この年で一番美しい本」という賞をもらったそうです。
デザイナーが作った本ですから、いろいろ工夫がおもしろいです。

私が一番驚いたというか、自分の無知を実感したのは、過去にアメリカその他がおこなった核実験の実態です。

ビキニ環礁、島々の住民は放射性降下物の実態も知らされずに、まだ放射性物質がいっぱいの島に戻され、いわば人体実験のような役割を果たさせられたそうです。

そういえば、小さい頃、ラジオから毎日「ストロンチウム」という言葉が聞こえてきたし、雨にぬれてはいけない、と言われたものだと思い出しました。「ホウシャノウを浴びるから、ちゃんと傘をさすのよ」と母に言われても、傘ぎらいの私は、あまりささなかったなあ。

世界には、まだ一つも核廃棄物の最終処分場がありません。
廃棄物はどんどん増え続けて、たとえ地球の奥の方に最終的に埋設されても、核廃棄物は気の遠くなるほどの年月を超えて存在し、放射線を出し続けますから、問題が解決するわけではなく、次世代の人々を計り知れない危険性の中においてしまいます。

こういうことは頭ではわかっていても、それじゃあ自分はどうする、というところに結びつかないんですね。身近な所で食中毒が起こっていれば、「たいへんだー」と思って、それに対処しようとするけれど、遠くの地、はるか未来に及ぶ危険に対しては、想像力も実行力も働かないの。

私がせいぜい実行しているのは、自然エネルギーだけの電力を供給する電力会社と契約していることだけ。なにしろ、パン焼きでエネルギー消費しているからね、せめてそのくらいは。

日本は電力供給が自由化されていないから、これをしたくてもできないのが残念ですね。

ベランダにソーラーシャワーつけたら、水がすぐに熱くなるだろうなあ。
でもね、まさかベランダでスッポンポンになるわけにはいかないし・・・。


今、ドイツのジャーナリストが最近書いたばかりの「アトム嘘」という本を読んでいます。もちろん、これはドイツの実情を書いた本。
安いといわれている原発が、実は税金から大量の補助を間接・直接的に受けているし、何か起こったときに損害を補償するのも、大半は産業ではなくて国。エネルギー産業からの圧力には、緑の党のような革新政党も屈してしまい、妥協した、などなど、私たちがかねがね推測していたことを、この本は具体的な事実をあげて描いていて、まるで推理小説を読むようです。

こういうの読むと、政治家にはなりたくないなー(もちろんなれもしないけど)、と思いますね。
パン焼いてるほうがいい。

岩波書店の「科学」という雑誌の7月号に、「フクシマがドイツを変えた」という記事を書きました。
ドイツの脱原発の経過とそれに代わる電力供給の見通しというか可能性を記録したまでですが、本号は、福島事故や日本の自然エネルギー発電についての特集号でもありますから、ぜひお目をお通しいただければ、幸いです。









Last updated  2011/07/08 06:48:06 PM
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