AIでの起業(1) 大学まで
先週の土曜日の起業の学校で、全員が各々の起業理念について、まとめて発表した。かなり具体的な内容になっている人も、自分の思いを話される方も、夢を語る方もいた。いまは漠然と語っていてもだんだんと固まっていくんだろうと思う。半年後に、どんな話をされるのか期待しています。人のことを話している場合じゃない。私は、一応"AI"ビジネスで起業をしたいと思っている。なぜか話をすれば長くなるんだけど、これまで固めていることをここでゆっくりと話していきたいと思います。なぜAIに関わることになったかを、ちょっとしゃべります。これについては最近語ることがなかったので、私を知っている人の中には意外に思われる方がいるかもしれません。自分の半生を語るのは恥ずかしいですが、子どもに語るつもりで書きます。自慢話になったり、恥ずかしいことを書いてしまうかもしれません。でも脚色を交えない事実を書きます。もしいやな思いをしたらごめんなさい。----------------------------------------------------------------------AIっていうのは、1980年後半にブームになったときちょうど私は大学生でした。AIは、Artificial Intelligence の略語で、人工知能と訳されます。実は私は大学へ入るまでは、厭世観に悩まされていてどこかの離島で、ひっそりと暮らしたいと思っていました。人間を好きなんだけど、大人が嫌いで人間を信用できないという気持ちがいっぱいで、島で余生を過ごすにはどうすればいいかということを真剣に悩んでいた変な子どもでした。生きるためには技術が必要なんだ、そうだ医者になろうと思いました。中学校のときにみた「飛鳥へ、そしてまだ見ぬ子へ」という映画に感動して、その主人公が医者だったせいもあります。またブラックジャックに憧れたせいかもしれません。人間ってなんだろうと考え抜いたところ、高校のときに「ランニングと脳」を読んで脳科学というのをやりたいと思ったせいかもしれません。ただ、なぜか数学、物理、化学は学年でトップの成績だったものの、他の英語、国語、社会科は駄目でした。また当時現れてきた、マイコン、パソコンに夢中になってしまいます。パソコンを買う金はなかったのですが、当時のI/O, RAM, ASCII, マイコンという雑誌は、1冊だけ買ってあとは立ち読みで隅から隅まで全部読みました。なんでも夢中になる性格のため、パソコンを買うと受験勉強ができません。結局医学に進むか、それともコンピューター関係に進むか迷いつつ、高校3年の大学受験に突入しました。結局ちゃんと勉強しなかったので、共通一次試験はできなくて自己採点するのもいやでした。とりあえず名古屋大学理学部を受験しますが、やっぱり落ちました。受験で落ちたのは自分の責任だったので宅浪を決意しました。当時あったラジオ講座を朝5時に起きて聞いて、ペースメーカーにしました。その他、Z会の通信添削もやりました。あとは代々木ゼミナールや河合塾の模擬試験を受けたり、夏休みはラジオ講座主催の夏期講習へ行きました。でも、パソコンをこっそり買って、親が自宅にいないときに触っていたりしましたが。親が帰ってくると、さっと閉まって、机に向かっていました。パソコンは好きでしたが、自分の能力では数学の研究者にはなれないと思っていました。ただ数学をパズルのように解くのは好きだけど、じっくりオタクっぽく考えるのは性格上無理だなと思っていました。だから医者ならいいんではと。しかし、パソコンの他に別の敵がおりました。テレビ愛知という地元の新しいテレビ局が開局し始めたのです。8月頃から試験放送といって、映画ばっかり放送しだしたのです。昼11時頃から試験放送が開始されて、1日に3本も4本も映画を放送します。そのうちおもしろそうなのを、1~2本見始めます。それに負けじと、毎日大岡越前という時代劇の竹脇無我が演じるお医者さんを見て、「医者は尊敬を得られていいなぁ」と自分を奮い立たせます。宅浪すると、1ヶ月全く何をやってもだめというときもありますが、伸びるときはグンと伸びます。でもやったことは高校3年間で弱点だったところが補強できたぐらいだった気がします。ここでもし予備校へ通っていたら、受験テクニックを得て、京都大学へ行っていたかもしれないし、逆に駄目になっていたかもしれません。まあ一人で落ち込んでいたこともあったので、航空保安大学と慶應義塾大学を滑り止めにして、どうしようと思っていました。航空保安大学は合格することができたので、公務員になって落ち着いた人生もいいかなと思っていた矢先、共通一次試験で失敗しました。自分の目標は890点ぐらいで、名古屋市立大学の医学部を狙っていました。それが難しいときは、岐阜大学か三重大学の医学部へと。国語が120点ぐらいしかとれなくて、合計830点弱だったと思います。これですとどこの医大も厳しい。琉球大学か産業医科大学かな。モンモンと考えて、数学は何もしなくてもできていたので、もう一回数学に賭けてみようかって思いました。コンピューター専門の学部学科は、実は当時はなかったのです。東京大学の情報科学科、情報工学科や東京工業大学の制御工学科ぐらいしかはっきりと名前がついたものはありませんでした。他はほとんどが電子工学科に付随したものしかありませんでした。それでもう一度、名古屋大学理学部を受験したら、手ごたえがあったので受かったのです。大学へ入って、数学か物理学か悩みました。数学をやることになったのですが、おもしろくなくて悩みました。すでにパズルではなかった。学問として数学があったので、いったん入学したもののやめちゃおうか、転学しようかどうしようか迷いました。コンピューターは好きだったので、図書館にある本を片っ端から読みました。Bitという雑誌のバックナンバーを1968年ぐらいから?読みました。結構、古いコンピューターの話題もそれでついていけるぐらいの知識を得たつもりです。その頃、齋藤洋典(ひろふみ)という若い認知心理学を専攻している助教授に出会って、変わりました。彼からアーサー・ケストラーやフーコーなどの近代の思想家たちを紹介してもらい、認知心理学などのアカデミックな世界を教えてくれました。いまだにわかったようなわからないようなPrologという言語ソフト(Prolog-KABA)をもらったり、認知科学を研究することを薦めてくれました。数学は専門課程に進むのですが、時間の大半は人工知能や認知科学を学んでいたように思います。勉強が面白かったので、本当に時間を忘れて勉強していました。私はAIやコンピューターの専門課程を卒業していませんが、たくさん勉強したと自負できます。なぜAIを勉強したかといえば、「人間とは何か」ということについて答えてくれそうな気がしました、また成績が悪く「脳医学」研究の道へ進めなかった気持ちがあったからだと思います。一方、大学ニ年から株の売買を少しやり始めていたので、株の売買をAIがしてくれたら楽な人生を送れるのにという勝手な思い込みもありました。明日は、自分の半生から離れて、AIの歴史と経過をまとめてみます。