《 幸せのひろいかた 》  フェルトアート・カントリー木工 by WOODYPAPA

2023/01/15(日)09:24

誕生日につき1956年を考える

昔の話(11)

  本日1月17日は、僕の誕生日。60歳の還暦を迎えました。この節目に、60年前の日本を振り返ってみようと以前から考えていました。 (27) 1956年ニュースハイライト(1956年(昭和31年)12月31日) - YouTube  ・首相は鳩山一郎でした。(2009年の政権交代で民主党総理大臣となり、稚拙な政治をあからさまにしたルーピー鳩山由紀夫は一郎の孫。ちなみに鳩山内閣農林大臣・河野一郎は、後の”従軍慰安婦問題”で日韓の禍根を残す「河野談話」の発信者河野洋平の父。この内閣では、小泉純一郎の父・純也も政務次官として名を連ねています。鳩山一郎の前の首相は吉田茂で麻生太郎の祖父。57年に首相となる岸信介は安倍晋三の祖父。戦後の政治は世襲によって繋がっていたわけです。 鳩山首相の演説の骨子は、”平和主義”と”民主主義”。この考え方が戦後日本の柱となって政策がすすめられ、現在に至るわけです。 一見正しそうな”平和主義””民主主義”ですが、世界の中ではそうでもなく、特殊な思想だったかもしれません。 ・アメリカ・イギリス・ソ連の原水爆実験を批判。年頭に、北朝鮮は国威発揚のため水爆実験に成功したと発表しました。北朝鮮人民は核兵器を持つことを喜ぶようです。日本人のほとんどは、核兵器を嫌います。日本は世界唯一の被爆国だからというだけでなく、DNA的に日本人は戦争を好みません。ふつうこういう民族は、歴史上好戦国に滅ぼされてしまうのですが、地政学上で海が守ってくれたおかげで生き残っていました。明治維新以降、海外で戦争をする機会が生まれましたが、すべてロシアや欧米のアジア植民地化に抵抗するためでした。相手が攻めてこなければ、こちらから攻めることはしません。それが日本人の遺伝子です。  ・沖縄の基地反対運動。日本自体は、1951年の”サンフランシスコ和平条約”によって独立を回復しましたが、沖縄はまだアメリカの占領地として残っていました。「半永久的な基地となる」という解説があるように、沖縄は敗戦の代償にアメリカに差し出された領地でした。これをすべて取り返そうとすれば、そのための軍備も当然必要となり、”平和主義”のお題目だけでは国土を守ることはできません。 全世界が、一斉に武器を捨てて”平和主義”を誓えばいいのですが。 それは人類が滅びるまで無理でしょう。 ・砂川町基地拡張反対派、警官と衝突「砂川事件」については、昨年の安保法制問題で浮かび上がってきたワードでしたが、こんなことがあったんですね。今、立川方面を車で走ると”砂川町”を通るわけですが、残照は全く見えません。今となっては何で反対してたんだと不思議ですが、時代の熱は時を経ては測れません。 ・自由民主党が作った憲法改正の歌。憲法改正の歌を、鳩山首相以下自民党議員が歌っています。作詞は当時の青年代議士・中曽根康弘。歌詞はこのようなもの。 一 鳴呼(ああ)戦(たたか)いに打ち破れ 敵の軍隊進駐す   和民主の名の下に 占領憲法強制し   祖国の解体計りたり 時は終戦6ヶ月 二 占領軍は命令す 若(も)しこの憲法用いずば   天皇の地位請け合わず 涙をのんで国民は   国の前途を憂(うれ)いつつ マック憲法迎えたり三 10年の時は永くして 自由は今や還りたり   我が憲法を打ち立てて 国の礎(いしずえ)築くべき   歴史の責を果たさんと 決意は胸に満ち満てり四 国を愛す真心を 自らたてて守るべき   自由と平和民主をば 我が憲法に刻むべき   原子時代に遅れざる 国の理想を刻まばや五 この憲法のある限り 無条件降伏つづくなり   マック憲法守れるは マ元帥の下僕(げぼく)なり   祖国の運命拓(ひら)く者 興国(こうこく)の意気挙(あ)げなばや 終戦10年余りだと、まだ世の中に敗戦のくやしさが残っています。沖縄や砂川の様子とリンクしてみれば、このような怨念が漂っていることも理解できます。しかし、それは時代背景を考慮してのこと。自民党結党以来の悲願と安倍晋三は言いますが、この歌詞を今読んでも同じテンションで語れますか?憲法を変えるのにやぶさかではありませんが、怨念ではなく、現実な視点で論じるのが良かろうと思います。 ・憲法改正に絡んだ法案で国会が混乱。昨年の安保法制国会の様子と重なります。 民主主義は、”多数主義”です。間違ってはないのだけど、少数者の不満は残る。ないということです数で負ける少数者に、どう配慮するかも政治です。結局中途半端な結末に落ち着きがちです。ただし強く述べるべきは、少数者の暴力を容認するわけではないということです。 ・ソ連の微笑外交とエジプトのスエズ運河国有化宣言からのイスラエル・イギリス・フランスのエジプト軍事介入、国連軍の出動。現在に続く中東問題は、主は移れどすでに始まっていました。イスラム教とキリスト教・ユダヤ教の摂理の違いもあるでしょうが、底辺にあるのは欧米の差別思想。差別がなくなるのは理想だけれど、無理だから、せめて理解し合おう。思想信条が違っていても、人間同士であることは変わりない。 ・ソビエトのハンガリー・ポーランド軍事行使。一方東ヨーロッパでは、スターリン死去(1953年)から脱ソ連志向と民族自決運動。それによるソ連の軍事介入、難民流出と歴史はいつも弱いものを犠牲にします。これから米ソの冷戦時代が続きます。ソ連崩壊の後も、大国同士の冷戦は続いています。熱戦でないだけましですが。 ・南半球初の、メルボルンオリンピック(オーストラリア)。夏季オリンピックなのですが、南半球ということで11月22日に開幕(~12月8日閉幕)。あまり話題とならなかったオリンピックでしたが、日本は銀メダル10個の大活躍でした。ただし、スエズ動乱により、エジプト、レバノン、イラクが不参加、ソ連のポーランド侵攻に抗議してスペイン・オランダ・スイスが不参加、中華民国参加に抗議して中華人民共和国が不参加と、当時の国際情勢が強く反映されてしまった大会でした。 ・「日ソ共同宣言」著名。「日ソ共同宣言」の内容は次の通り。 日ソ両国は戦争状態を終結し、外交関係を回復する。(サンフランシスコ条約で為し得なかった講和の成立)日ソ両国はそれぞれの自衛権を尊重し、相互不干渉を確認する。ソ連は日本の国際連合加盟を支持する。ソ連は戦争犯罪容疑で有罪を宣告された日本人を釈放し、日本に帰還させる。ソ連は日本国に対し一切の賠償請求権を放棄する。日ソ両国は通商関係の交渉を開始する。(同日に通商航海条約を締結)日ソ両国は漁業分野での協力を行う。日ソ両国は引き続き平和条約締結交渉を行い、条約締結後にソ連は日本へ歯舞群島と色丹島を引き渡す。 後に、エリツィンやプーチンが再確認しているように、日本とロシアの間は「日ソ共同宣言」の距離だけ接近しているのです。残すのは、「平和条約締結」と「歯舞・色丹返還」だけ。何故これが進まないのかというと、日本側が国後・択捉を含めた4島返還を求めているからです。2島より4島の方がいいに決まっているけど、0島よりは2島の方がいい。僕は、2島返還でも合意すべきだという意見です。理由は、”サンフランシスコ和平条約”で、千島列島の放棄に合意していて、戦後の体制はこの条約の下に成り立っているからです。千島列島に連なる国後・択捉はこの条約に従って諦め、千島に含まれない歯舞・色丹は合意のように速やかに返還して、そののちに双方の国に良い方法で話し合いを進めればいい。これは僕だけの考えではなく、地元の北海道民の考えでもあります。千島列島に軍事基地は作らないという条項が付けば、アメリカの支持も取り付けると思う。その上で経済協力を行えば、宿年の敵であることを忘れさせてくれるはずです。考え方としては、中国とロシアをこれ以上近づけさせないことが、防衛上重要になると思うのですが。 ・国連加盟実現。ソ連との共同宣言成功により、日本は国連加盟を受理されました。翌年には、国連非常任理事国になりますので、日本の地位が国際的に回復したことを意味します。今思うと当たり前のことが、この時期にとんとんとすすんで戦後日本の形を作っていったのでした。 1956年は、経済企画庁の経済白書「日本経済の成長と近代化」の結びで「もはや戦後ではない」と記述された年です。沖縄問題や砂川町事件など、米軍基地問題は残っているものの、日本は敗戦のどん底からたくましく蘇っていきます。僕らは、子供の頃”現代っ子”と呼ばれ、新しい社会をつくる担い手として、期待と不安のまなざしで見守られてきました。その現代っ子も還暦を迎え、現代老人時代が始まろうとしています。平均寿命の80歳まで、残りの人生が20年あります。その人生の終章を、健康で平和な暮らしを続け、幸せな生涯を全うするため、さらに自分を磨いていこうと誓った新年でした。        

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