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翔建築設計の所長日記

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yoshiki@ Re:●建築家のお仕事(634)竹内日祥上人の講演(01/21) はじめまして私も2000年から竹内日祥上人…
2005.11.11
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カテゴリ:家族
亡き父のこと Part4

 父の赴任した今市中学校は、県内でも指折りのマンモス校だった。
人数が多い分、不良ッ子も多かった。自分の古巣みたいであまり苦にはなら
なかったようだ。両手はいつもはれていた。今ならPTAが大騒ぎだろう。

校内では、日教組の先生との対立が激しかったようだ。
日教組の先生が増えつつあり、父は大きらいだった。
日教組の先生は、自分が大学をでているくせに、生徒には学歴不要論を語り
、優秀なのに中卒で働く生徒がでてきた。これには怒った。

今市中学校には11年在籍した。私は別の中学校。
ちょうど私と同年齢ぐらい年齢層にあたり、中学時代になぐられた話を友人
達からよく聞かされた。
柔道部の顧問として、よく練習はしていた。県大会で優勝したこともあっ
た。酒はかなり飲んだ。

父は、中学校教諭の世界の狭さに嫌気をさしていた面もあった。
校長教頭から見ると、ずぬけて破天荒な父は扱いが難しかったのだろう。
気の合う校長の時はよかったのだが。

 年と共に病気がちになった。椎間板ヘルニア、糖尿病。
昔からの不摂生がたたったようだ。
兄が大学卒業。弟がコックの修行に入る。妹は高校生。
私が大学卒業して宇都宮の設計事務所に就職した年の5月に力尽きて亡くな
った。病名は喉頭ガンだった。51才だった。

これから楽になるというときに、又育ててくれた恩返しがこれからという時
に亡くなって、なんともやりきれなかった。
私は49才になり、父の亡くなった年に近づいている。
父の分まで我々兄弟は生き抜かなくてはと思っている。


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Last updated  2007.04.28 11:14:52
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