テーマ:今日の出来事(295604)
カテゴリ:歴史
ついに300回目の書き込みになった。
かき込み率はだいたい50%。おととしの5月から始めている。 昨晩10時NHKスペシャルを見る。 「大化の改新 隠された真相」 私の大好きな古代の話。 この発見は衝撃的だ。ついきのうの出来事のように想像力をかき立てる。 ちょっとオーバーかな? 645年に起きた古代史最大の事件「大化改新」。 以前同じNHKでこのテーマで放送し、ブログに書いたことがある。 『日本書紀』によれば、蘇我入鹿は天皇を脅かす権勢で、改革の障害 となっていたので中大兄皇子や中臣鎌足のクーデターより殺される、 と教科書では習い、前回の放送ではそう言っていた。 しかし、 事件の舞台となった都・飛鳥(奈良県明日香村)で次々に発掘される 遺跡は史実とは異なる。 現在、昨年に引き続き、甘樫丘で蘇我入鹿の邸宅跡が発掘調査され ている。 これまで発掘された蘇我一族の邸宅跡、飛鳥寺など関係する遺跡を総 合すると、 自らが盾となって都を要塞化し、都を外敵から守ろうとしていたよう である。 その要が、飛鳥の入り口に位置し、都の外を一望できる甘樫丘だ。 渡来系ともいわれ、大陸に情報ルートを持っていた入鹿は、巨大帝国 ・唐が倭国に侵略の矛先を向けていることをいち早く察知、脅威に備 え飛鳥の防衛網構築に力を注いだ。 その一方で、古代日本の海の玄関であった大阪・難波を整備し、東ア ジア諸国と協調路線の外交を繰り広げようとした。 ここまでのところ、国のためにいいことをしていたように思える。 何故入鹿は殺されなければならなかったのか? 中央集権的な律令国家を目指して行われたという大化改新の政治改革に ついても疑問がある。 『日本書紀』の音韻・語法から分析する最新の研究などから、その内容 の信憑性に疑いが向けられ始めているそうだ。日本書紀は最終編集の時 に都合の悪いところを書き換えられているのではないかという疑問。 「大化の改新」から18年後の663年。朝鮮半島で倭国の友好国であ る百済が唐・高句麗連合軍に攻撃されるのを期に援軍を出し、 「白村江の戦い」で大敗する。 蘇我入鹿がもっとも恐れた唐に刃向かったのである。 その後作られた城壁(八釣巻遺跡)が発見されている。瀬戸内、北九州に 対唐対策の防波堤を築き始める。 そしてそのころから「律令」制度を取り入れている。 いったい、それまでの18年間何をやっていたの? 政治改革の形跡がないのだ! バブル崩壊後の空白の10年じゃあるまいし。 この辺が解明されると、蘇我入鹿は汚名解消になり中大兄皇子や中臣鎌足 は不忠の徒となってしまう。 710年 平城京へ遷都 720年 「日本書紀」完成(持統天皇、天明天皇、藤原不比等) 真相は何????? もうひとつのブログも見てね! FC2ブログ『建築はおもしろい』 当社のhpも見てね ![]() ←ポチッと押してご協力お願いします。元気の源です。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007.02.03 14:02:05
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