科学的な視点
こんにちは、ソフィアです。「神様などの存在は科学的に証明できないので信じられない or いない」 というのを耳にすることがあります。昔は私もそう考えていたところもありました。科学的に証明されていないから波動や気のエネルギーなんて存在しない、科学的に否定されているから・・など科学的なことが万能であるかのように、科学的なことが理由になってしまうのです。まるで科学教であるかのように科学を信じ込んでしまっている状態です。分子生物学や遺伝子の研究を仕事として実際に科学の現場をこの眼で体験したことで科学というものは完全なものでは全くなくたくさんの間違いや不明な部分がある不確かなものだと知ることができました。確認実験がしっかりしていない研究者はけっこう多いです。本当に正しいのかはっきり確認できていないのに 解析を進めてしまい、結局差が出ず論文になりません。しかし運悪く(?)論文になってしまうものもあるのです。また実験がうまくできない人も少なくないです。そういった中でもなんとか論文にしているのです。そういったことをたくさん眼にしていくうちに科学の私の概念が音を立てて崩れていきました。科学って人がしているのだから人のように間違いもあるものだと知るに至りました。面白いことに多くの優秀な科学者は生命に神秘すら感じているようです。私のボスは誰よりもゲノムのことなら何でも知っているのに「ゲノムのことはわからないねー」といっておられました。ある優秀な研究者の方は講演会で「たった一つの細胞である卵から発生過程を経てあんなに完璧な生き物ができるなんて生命に神秘を感じる」とおっしゃっておりました。また偉大な発見は意外に非科学的なものをきっかけに生まれることがあります。DNAの二重らせんのワトソンもインスピレーションだったそうですし炭素環も夢からですね。北里柴三郎博士も空の雲を見ていて「無酸素培養」のインスピレーションを受けたらしいですね。現在の科学で神や波動、気のエネルギーなどの非物質的な存在を証明するための検出手段はまだありません。 だからといって否定してしまい、それに関心を持つ人たちを単純にカルトよばわりしてもよいものなのでしょうか?ですから本当に科学的でありたいと思うのであれば「神様などの存在は科学的に証明できないので信じられない or いない」 とは言わずに、「神様などの存在は科学的に証明されていない(検出手段をもたない)のでわからない」と表現することが正確ではないかと考えています。信じる信じないはまた別問題です。先入観を一切捨て、いったん全てを疑う(あるいは全て正しいとして矛盾点が一切ないか検討してみる)ことから真実の探求は始まります。そして自分の経験を通してゆっくりと検証していけばよいのです。特に神様といった不確定なものについてはなおさらですね。真実は何か、時間をかけてゆっくり検証してから結論を出しても出さなくてもいいのです。 その間信じたいものを信じればよいのですね。 真実を求め続けていれば日々の人生の中で答えがもらえる場合もあります。 そのようなことが増えると人生は充実していきます。 「求めれば与えられる」ことを優れた科学者だけでなく求める人はみな日々経験することができます。自分の中にあるほんとうの真実を見いだすまで真実を求める旅は続きます。 読んでいただきありがとうございます。