Four Seasons Story

中原淳一のメッセージ



ろぜ

 

中原淳一というと、可愛らしい少女の絵しか思い浮かばないと思いますが、
実は優れた詩人であり文筆家でもあります。
しかもそのメッセージはいずれも愛に溢れていて、
とても美しい言葉の数々で綴られているものばかりです。
またその言葉の殆どは昭和20年~40年代にかけて
書かれたものであるにも関わらず、時代を超えて
今もなお色褪せないのは、彼独自の美学が
真理に基づいているからといえるでしょう。


もしこの世の中に、風にゆれる「花」がなかったら、
人の心はもっともっと、荒んでいたかもしれない。


もしこの世の中に「色」がなかったら、
人々の人生観まで変わっていたかもしれない。


もしこの世の中に「信じる」ことがなかったら、
一日として安心してはいられない。


もしこの世の中に「思いやり」がなかったら、
淋しくて、とても生きてはいられない。


もしこの世の中に「小鳥」が歌わなかったら、
人は微笑むことを知らなかったかもしれない。


もしこの世の中に「音楽」がなかったら、
このけわしい現実から逃れられる時間がなかっただろう。


もしこの世の中に「詩」がなかったら、
人は美しい言葉も知らないままで死んでいく。


もしこの世の中に「愛する心」がなかったら、
人間はだれもが孤独です。

    (「美しく生きる 中原淳一 その美学と仕事」より抜粋)




日本中の人が、昨日より今日の方が少しでも美しくなったとしたら、
日本は昨日より今日の方がより美しい国になるわけです。
そして、今日より明日がもっと美しくなれたら、
日本中はまたずっと素晴らしい、美しい国になるでしょう。
(1947年「ひまわり」より抜粋)



「美しくなる」ということは、
他の人たちをアッと言わせるような美しさを
見せびらかすことではありません。
また、決してゼイタクなことをするというのでもありません。
着飾ったりお化粧したりすることは忘れていても、
身だしなみだけはいつも心がけて欲しいものです。
身だしなみの本当の意味は、自分の醜い所を補って、
自分の姿がいつも他の人々に快く感じられるように、
他の人があなたを見る時に、明るくなごやかな気持ちに
なるためのものだということを忘れないで下さい。
(1956年「ジュニアそれいゆ」5月号より抜粋)



今自分があるがままに満足だけを感じているのも
勿論しあわせの一つに違いありませんが、
ただそれだけではいけないことはよくわかると思います。
大きな理想を持ってそれに向かって
しあわせを求めようとするのは本当に大切なこと。
毎日毎日努力を続けて大きなしあわせを感じることは
どんなにすばらしいことでしょう。
けれどその理想通りにならないからといってしあわせを感じない、
不幸だと思っては何にもならないのです。
(1956年「ジュニアそれいゆ」より抜粋)



お金があるとか綺麗だとかいうことは、
たしかにしあわせになれる条件に違いありません。
けれどしあわせというものは品物ではないのです。
何かそのものをしっかり掴んでいれば
しあわせになれるというのではないのです。
お金や綺麗だとかいうことは私たちは掴んでいることが出来ますが、
それはまた不幸の条件になることだってあるのです。
しあわせは自分の心の中の喜び、一人一人の心の中にあるものなのです。
(1956年「ジュニアそれいゆ」より抜粋)



人間の生き方の中で一番正しい生き方は、
自分らしい生き方をすることだと思います。
あなたのお母さまが、お母さまらしくなかったり、
お父さまがお父さまらしくなかったりしたら、
とてもいやなことでしょう。
ジュニアは、ジュニアらしい生き方をしましょう。
それが一番美しいことなのですから。
(1958年「ジュニアそれいゆ」より抜粋)



座談というものは、いつも映画のせりふのように、
面白く簡潔に運ばれるとは限りません。
そんな時、うんうんとうなずきながら窓の外を眺めてみたり、
手近の雑誌をとり上げてパラパラ頁をめくったり、
気が散っているのを相手に感じさせるのは礼を失します。
「もちろんそんな失礼なことはしないわ」という人でも
次のような場合が無いとも限りません。
それは何人かが集まった席上、一人が皆に話しかけている最中
それが自分に興味の無い話題だと、ふっと窓から秋晴の空をながめて、
アア素敵なコバルトブルーだわ、あんな色のスーツ作ったらいいだろうなあ、
などと妄想にふけってしまうことです。
私一人くらい聞かなくても、という気持ち、
それが話し手の心にどんな印象を与えるか。
案外これが座を白けさせる原因にならぬともいえません。
(1949年「それいゆ」11号より抜粋)



話術、つまり話をするテクニックのうまさとは、
自分が話し出そうとすること、
また話していることの中心をしっかり掴んで話をすることが第一です。
さらにその話を巧みな表現で肉付けられれば、
それはもう立派な座談の名手ですが、そこまで望めないまでも、
感激した話、面白かった話、恐ろしかった話、どんな話にせよ、
どこが、どういうことが、この話を感激的なものにしているか、
面白いものにしているか、その話のキイをおさえて話を選ぶことによって、
話はひとりでに相手を感激させたり、面白がらせたりするものです。
自分では面白がらせようと思って、話をすすめているのに聞き手は
余り面白そうな様子が見えない。
こんな経験をお持ちではありませんか。
こんな風に話の上手でない人はあまり細かく描写を運ぶようなことをせずに、
適当に中心だけをサラサラと話すようにしましょう。
(1949年「それいゆ」11号より抜粋)



しあわせはまた、自分がしあわせだと感じたその瞬間にあるものです。
何にでもしあわせを感じる人はその瞬間が沢山ある人、
本当にしあわせな人と言えます。
(1956年「ジュニアそれいゆ」より抜粋)



俗に「話し上手より聞き上手」といいます。
上手に話をすることも難しいことですが、
相手に快く話させるようにする聞き手になることは、
もっと難しく、大切なことです。
相手が面白そうに自分の話を聞いてくれると気づくと、
話の下手な人でもつい興に乗って、
思いがけない話術の妙を示すこともあります。
そうかといって、お互いが聞き上手になろうと競争していたのでは、
だまってにらめっこをするようなことになります。
だからそれも適当にすることで、話し上手であって聞き上手という
二つの面を持たなければならない訳です。
面白い話題を次々に投げかけながらも、
それで相手を圧倒してしまわずに、その間に相手が話し始めたら、
さあ喜んで聞きましょうとすぐ聞き上手に廻れる人、
また、面白く話を運びながらも「あなたはどうお考えですか?」という風に、
相手が話しだせる緒を作ってあげる心遣いもほしいものです。
(1949年「それいゆ」11号より抜粋)



他人から贈り物を受けるのは、
その人が誰かから愛情を受けたしるしだから金額や品質にかかわらず、
その好意のあらわれである品物を自分の心の宝物として大切にする人は、
やはり幸福をかち得る人であろう。
それがたとえこわれてしまってからも、大切にしまっておくという心の優しさ。
幸福はそういうところから生まれてくる。
人が好意を持ってくれた温かい思い出、愛された懐かしい記念品は
どれも粗末にすべきでない。
(1950年「それいゆ」13号より抜粋)



幸福は一度手にとれば一生逃げてゆかないというようなものではなく、
毎日の心掛けで少しずつ積み重ねてゆかねばならない。
その心掛けというかテクニックは、気をつけて見ればどこにでもあると思う。
非常に忙しかった1日でも充実感を味わう事ができれば、
疲れても幸福な生活を送るためには、
ぜひ特別に娯楽の時間を必要とするように考えるのは間違いで、
仕事に緊張した時間がほぐれた時おとずれる安らかさの中にこそ幸福があり、
その楽しさも大きいのだ。
(1950年「それいゆ」13号より抜粋)



部屋の模様替えが適宜にうまくできる人も、
いつも生活に清新な明るい雰囲気を保たせる幸福な人だろう。
家具の位置が右から左に移っただけで、
また隅にあったものを真中に移動させる事で、
もうその部屋に昨日までの生活とは違った角度を創り出す事ができるものだ。
三ヶ月に一度くらいの割合で部屋の空気を一新させてみたらいいだろう。
ちょっとした工夫と心遣いによって室内を
たえず新しい心持ちで生活出来るようにしていれば、
どんな小さな部屋でも明るい幸福感を抱くことが出来る。
(1950年「それいゆ」13号より抜粋)



何気なく開いた引出しが乱雑で、
たたまない衣類、洗っていない下着が突っ込んである程
だらしがないものはない。
それは自分の心の引出しも乱雑で
ふしだらだという事を証明しているようなものだろう。
逆に引き出しの中がいつもきちんとよく整理されている人は、
たとえ上等のドレスは持っていなくとも、
常に最高のものを用意しているともいいうる。
汚れものと一緒くたになっていたのでは、
どんな豪華なドレスを持っていても、その人に幸福が訪れるとは思えない。
(1950年「それいゆ」13号より抜粋)



きちんと掃除が出来たあとの清々しさ。
それだけでも明るい気持ちになれるものだ。
掃除の行き届く人は身なりもきちんと整って清潔だろうし、
きっと洗濯も好きに違いない。
つぎものをする時、とも糸でつぎをする人、
ボタンの取れたままのブラウスなどを着ない人
靴を朝家出る前にぴかぴか光らせている人、
そういう人は自分の生活から、常に乱雑さや汚らしさを除いているわけで、
そうしたところから幸福を拡げてゆくに相違ない。
(1950年「それいゆ」13号より抜粋)



料理が上手な事は、もちろん結構なことだが贅沢をつくした料理でなくとも、
料理する人の心構えでいくらでも幸福に食べられる事を忘れてはならない。
有り合せの材料でも―さあ一つ素晴らしい料理を作ってみよう、
と工夫する心の人であることだ。
それには料理の配色や皿小鉢の取り合わせなどにも
気の利いたテクニックが欲しいものだ。
何気なく食卓に添えられた一輪の花が、
どんなに人の気持ちに潤いを持たせ
幸福にするかを知っている人でありたい。
(1950年「それいゆ」13号より抜粋)



第一に明るい心を持つ事から始めよう。
明るい心で明るく人に対する、明るく澄んだ声で「はい」とはっきり返事をする。
いつも明るい微笑をたたえている人でありたい。
それはきっと人の心を和ませ豊かな気持ちで包み、
したがって愛されもする結果にもなるのだ。
「うん」とか「ええ」または「はえ」ときこえるような濁ったものうい返事は、
相手に不快を与えるという点で、たとえその人がどんなに美しく着飾っても、
幸福に暮らす大きな条件に一つ欠けている事になるだろう。
(1950年「それいゆ」13号より抜粋)



毎年、スカートが長くなったり、短くなったり、
ヘアスタイルもいろいろ変わったり、それから靴のカカトが
太くなったり細くなったり、そんなものを身につける新鮮さも嬉しいものです。
しかし、最近はマスコミが、人間の生き方や、ものの考え方にまで
これでもかこれでもかと流行を作って、そんな生き方をすることが、
また、そういう考え方をする方が、新しいといわれたり、
カッコイイ生き方だと考えられたりする傾向があるのではないでしょうか。
人生をスカートの長さや、ヘアスタイルのようには考えないで下さい。
いま、古いといわれている人間の習慣や生き方の中には、
事実、切り捨てなければならないようなものも数多くあるでしょう。
しかし、そんなものばかりではないはずです。
何千年もの長い年月を生きてきて、その積み重ねから、
人間を一番幸せにする基本のようなものが出来上がってきて、
それから今日まで続いているものなら、
それは、人間という動物の本質的なものだともいえるのではないでしょうか。
だから、ちょっとした興味本位な思いつきや、無責任に作り上げられた風潮で「
そんなの古い」と片づけてしまえないものも沢山あるはずです。
「いつまでも古くならないもの」
―それこそがむしろもっとも「新しい」ものだとはいえないでしょうか。
人生はスカートの長さではないのです。(1971年「女の部屋」5号より抜粋)



「美しい」と「醜い」とをくらべれば「美しい」方がいいのにきまっています。
美しい心、美しい言葉、美しい住居、美しい暮らし、美しい友情、美しい動作、
美しい装い、美しい人などなど。「醜い」方が良いというのは一つもありません。
だから私たちの身のまわりのすべてを美しく彩りたいものではありませんか。
「外観よりも内面だ」と、まるで外観にこだわらないことがいいことのように
思う人もいるようですが、内面に美しいものを持った人が外観が美しければ、
もっといいのではないでしょうか。
<中略>人間である以上、内面を高めなければならないのは当然ですが、
だからといって外観はどうでもいいというのもゆきすぎではないでしょうか。
つまり内からにじみ出る美しさというものがあるならば、
これは外観には関係なく誰もが高めなければいけないことなのです。
<中略>快い話し方、さわやかな笑顔、清潔な装い、趣味の良い色彩感覚、
てきぱきとした身のこなし、適度なおしなおしゃれセンス、
そんなものが、必ず相手に快いものを与えているはずです。
「美しさ」に自信がなくても、相手にさわやかな印象を与えることは、
誰にも出来るのだと自信を持ちましょう。
しかし、「美しい人」はその美しさで、すべてが許されるのだなどとは、
ゆめゆめ考えないで下さい。
あなたに内面の美しさが加わってこそ、はじめて「美しい人」なのです。(
1970年「女の部屋」4号より抜粋)



大きな喜びは、そう滅多にあるものではない。
そこで他から来る喜びを待つ心よりも、自分の周囲に小さな喜びを探す心、
どんなわずかなことでもいいから、喜びを大切にする心が欲しい。
古いオーバー地を切ってフェルト代わりに夫の雨靴に敷いた、
鉛筆を削る、窓に花を飾る等、何でもいいと思う。
(1950年「それいゆ」14号より抜粋)



しあわせは心の中にあるもの、つまり自分がしあわせと感じることです。
どんなに身のまわりにしあわせになることが沢山あっても、
もし自分で「ああ、私にはこんなにしあわせがある」と感じなかったら、
それは結局どうにもならないこと、
その人は決してしあわせになることは出来ないのです。
しあわせになりたかったら、自分の身のまわりのしあわせを
自分で感じるような人になることが一番大切だということを知ってください。(1956年「ジュニアそれいゆ」11月号より抜粋)



「おしゃれな人」とは、どんな人でしょう?
それは美しくありたいと思う心が、ことさらに強い人のことです。
どんなにお金がかけられなくても、上手に美しい効果を見せられる人は、
やはり天才かもしれません。
しかし、天才が努力しないよりも、むしろ天才でない人が、
どうしたらほんとうに美しくなれるかを研究する方が、
かえって天才を凌ぐことも多いのです。
どちらにしても、あなたが上手におしゃれをして、
人の心を楽しくさせるような人になって欲しいと思います。
(1958年「あなたがもっと美しくなるために」より抜粋)



「微笑」は、何でもないようでいて、
人と人とが交わっていく上に大切なものです。
美しい少女が、きどってすましているのよりも、
そんなに美しくなくても、明るくほほえんでいる少女の方が、
私にはずっと気持ちよく美しく感じられます。
また、毎日の生活をしてゆく上には、そうでなければならないでしょう。
(1950年「ひまわり」7月号より抜粋)



女性は愛情深い人間であってほしいのです。
朝食の支度をするなら、その朝食を食べてくれる人の一人一人に
愛情をこめて作ってほしい。窓を開けたら、新鮮な空気を胸いっぱいに吸って
幸せを感じ、窓辺の植木鉢にも愛情をこめて水を注ぎたいし、
掃除をするなら、そこに住む人にはもちろんのこと、家具や柱とか壁にまでも、
愛情をこめる女性であってほしい。
愛する心は、夫や恋人にだけ与えるものではなく、
すべてのものに愛情深くあってほしいのです。
(1970年「女の部屋」3号より抜粋)



「美しくなる」ということは、
必要以上に濃い化粧をしたり、
身分不相応にお金をかけたものを着ることでもありません。
自分の欠点、つまり醜いところを目立たせないようにすることです。
それは自分のためだけではなくて、
むしろ、相手に不快な感じを与えないために補うということだともいえます。
だから誰もがもっと熱心にそのことを考えなければならないと思うのです。
(1971年「女の部屋」5号より抜粋)



美しくあることに、決して臆することはありません。
それはあなたの誇りです。
「美しい」という言葉を作った、私達の先祖は、
これを悪い意味に用いたことはありませんでした。
それは「心のまこと」という意味です。
美しい心…美しい友情…。
そして、美しい服装とは、決して着飾ることでもなく、
華やかな色彩をいうのでもありません。
又、沢山のお金をかけてのみ、出来るものでもありません。
それは、程よい調和の中に、あなた自身を生かすことです。
言葉を換えれば、あなたらしくあることです。
(「中原淳一 エッセイ画集2 ひまわり みだしなみ手帖」より抜粋)

   


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