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2011/12/22
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カテゴリ:心に効くことば

 夏目漱石の門人のひとり、科学者で随筆家の寺田寅彦先生の文章に、
こういうものがあります。

「科学者は頭が悪くなくてはならない!」
寺田寅彦先生流の”逆もまた真”という論法なんですが、紹介したいと思い、
引用します。


科学者とあたま 寺田寅彦

私に親しいある老科学者がある日私に次のようなことを語って聞かせた。

「科学者になるには『あたま』がよくなくてはいけない」
これは普通世人の口にする一つの命題である。
これはある意味ではほんとうだと思われる。
しかし、一方でまた「科学者はあたまが悪くなくてはいけない」という命題も、
ある意味ではやはりほんとうである。
そうしてこの後のほうの命題は、
それを指摘し解説する人が比較的に少数である。

・・中略・・・

いわゆる頭のいい人は、言わば足の早い旅人のようなものである。
人より先に人のまだ行かない所へ行き着くこともできる代わりに、
途中の道ばたあるいはちょっとしたわき道にある肝心なものを見落とす恐れがある。

頭の悪い人足ののろい人が
ずっとあとからおくれて来てわけもなくそのだいじな宝物を拾って行く場合がある。
 頭のいい人は、言わば富士のすそ野まで来て、そこから頂上をながめただけで、
それで富士の全体をのみ込んで東京へ引き返すという心配がある。
富士はやはり登ってみなければわからない。

考えるだけの人であるより、
行動の人であったほうがいいと言っています。
 結果の過程にある、道端の大事なもの、それを見失うこともある。
 結論を決めてかかると、他のものごとに気づくこともなくなる。
こういう意味です。
それは、「科学の発展の歴史においても、そうなのだ。」という文が続きます。


 「科学の歴史はある意味では錯覚と失策の歴史である。
偉大なる迂愚者(うぐしゃ)の頭の悪い能率の悪い仕事の歴史である。
 頭のいい人は批評家に適するが行為の人にはなりにくい。
すべての行為には危険が伴なうからである。
けがを恐れる人は大工にはなれない。
失敗をこわがる人は科学者にはなれない。
科学もやはり頭の悪い命知らずの死骸の山の上に築かれた殿堂であり、
血の川のほとりに咲いた花園である。
一身の利害に対して頭がよい人は戦士にはなりにくい。

 頭のいい人には他人の仕事のあらが目につきやすい。
その結果として自然に他人のする事が愚かに見え従って
自分がだれよりも賢いというような錯覚に陥りやすい。
そうなると自然の結果として自分の向上心にゆるみが出て、
やがてその人の進歩が止まってしまう。
頭の悪い人には他人の仕事がたいていみんな立派に見えると同時に
またえらい人の仕事でも自分にもできそうな気がするので
おのずから自分の向上心を刺激されるということもあるのである。

 頭のいい人で人の仕事のあらはわかるが
自分の仕事のあらは見えないという程度の人がある。
そういう人は人の仕事をくさしながらも自分で何かしら仕事をして、
そうして学界にいくぶんの貢献をする。
しかしもういっそう頭がよくて、
自分の仕事のあらも見えるという人がある。
そういう人になると、どこまで研究しても結末がつかない。
それで結局研究の結果をまとめないで終わる。
すなわち何もしなかったのと、実証的な見地からは同等になる。

そういう人はなんでもわかっているが、
ただ「人間は過誤の動物である」という事実だけを忘却しているのである。
一方ではまた、大小方円の見さかいもつかないほどに頭が悪いおかげで
大胆な実験をし大胆な理論を公にしその結果として
百の間違いの内に一つ二つの真を見つけ出して学界に何がしかの貢献をし
また誤って大家の名を博する事さえある。

しかし科学の世界ではすべての間違いは泡沫のように消えて真なもののみが生き残る。
それで何もしない人よりは何かした人のほうが科学に貢献するわけである。

・・中略・・・

最後にもう一つ、頭のいい、ことに年少気鋭の科学者が科学者としては立派な科学者でも、
時として陥る一つの錯覚がある。

それは、科学が人間の知恵のすべてであるもののように考えることである。
科学は孔子のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。
かるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや
老子やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。

芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをもっていない。
そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。

そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、
その人が科学者であるには妨げないとしても、
認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。

これもわかりきったことのようであってしばしば忘られがちなことであり、
そうして忘れてならないことの一つであろうと思われる。

 この老科学者の世迷い言を読んで不快に感ずる人はきっとうらやむべき
すぐれた頭のいい学者であろう。

またこれを読んで会心の笑えみをもらす人は、
またきっとうらやむべく頭の悪い立派な科学者であろう。

これを読んで何事をも考えない人はおそらく科学の世界に縁のない科学教育者か
科学商人の類であろうと思われる。」
(昭和八年十月、鉄塔)
 青空文庫より 底本:「寺田寅彦随筆集 第四巻」小宮豊隆編、岩波文庫、岩波書店  

さすが、「草枕」の名文を書いた漱石先生の門人です。
DNA遺伝子の発見時のノーベル賞のための、壮絶な情報合戦を、
「生物と無生物のあいだ」福岡 伸一 (講談社現代新書)で読みました。

それとは違う、「ウパニシャドや老子やソクラテスの世界、
芭蕉や広重の世界」の持つ価値に気づき、
道草を食い(寄り道と見えることもし)、
草を枕に寝転び世界を感じ(智慧の世界や美に触れて)、
行動することが意味があるのです。

「これを読んで会心の笑えみをもらす人、うらやむべく頭の悪い立派な科学者」に、
応援の一票を入れたいと思います。








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最終更新日  2011/12/22 07:13:16 PM
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