追悼「酒井雄哉大阿闍梨」
尊敬する比叡山の酒井雄哉大阿闍梨が遷化されました。酒井阿闍梨のことを書いた本 「生き仏になったおちこぼれ」は,つらい時、何度読み返したかわかりません。一般の人ではないですからご冥福を・・とは言えません。生き仏といわれた方です。 ありがとうございました。合掌 千日回峰行の中のもっとも過酷な行と言われるのが”堂入り”です。「堂内に入った酒井は礼盤に上がり、護身法を結んだ。内海師に先導されてほの暗い堂内を三周し、そのあと百八遍のの真言を唱える礼拝に入った。三百三十回の五体投地を重ねる。その間に、最後の堂内での姿を見届けた信者たちが合掌しながら、一人二人と堂内から去って行く。一山の高僧たちの姿もやがて消えた。明王堂の堂内には酒井一人が残された。鈍く軋む音をひびかせて正面の大扉が固く閉められた。不眠、不臥、断食、断水という人間の限界を超えた九日間の『生き葬式』といわれる堂入りがはじまったのである。 「生き仏になったおちこぼれ」長尾三郎 講談社より5日目には瞳孔が開きっぱなしになり死臭さえ漂ったという過酷な修行。線香の灰の落ちる音まで大きく聞こえるという極限の感覚。「酒井雄哉お堂入り9日間断食、断水、不眠、不臥の難行」をご覧ください。動画の中で唱えられているのは『不動明王慈救呪』という真言です。「ナーマク サマンダ バザラダン センダ マカロシャダ ソハタヤ ウンタラタ カン マン」(三世十方に遍漫する金剛部諸尊に礼したてまつる。暴悪なる大憤怒尊よ。砕破したまえ。忿怒したまえ。害障を破摧したまえ。ハーンマーン) 行者を守護する不動明王は、行者がその身を入れ換える対象そのものです。「もし不動明王さまが利他行を許すと仰せになるなら、生きて再び皆さま方と相まみえることができます。しかし、その必要なしと判断されたら、今日が永遠のお別れでございます。」 2回目の堂入りのときの挨拶酒井雄哉(さかい ゆうさい、1926年(大正15年)9月5日 - ) は天台宗の僧侶。比叡山延暦寺の千日回峰行を2度満行した行者として知られている。天台宗北嶺大行満大阿闍梨、比叡山一山 飯室不動堂長寿院住職、大僧正。海軍入隊から得度まで大阪市玉造生まれ。旧制中学卒業後、昭和6年(1931年)慶應義塾商業学校(慶應義塾大学の夜間商業学校)に入学。落第生で卒業が危ぶまれたため、慶應義塾の教授に薦められ、昭和19年(1944年)、熊本県人吉の予科練に入隊した。そこで半年間の訓練を受けた後、宮崎の宮崎海軍航空隊(後の松島海軍航空隊、陸上攻撃機)所属を経て、鹿児島県の鹿屋飛行場に移る。特別攻撃隊員として終戦を迎えた。戦後はラーメン屋を開業するが火事で焼けてしまい、菓子屋、証券会社代理店など職を転々とするがいずれもうまくいかない。また、結婚2ヶ月目に妻が自殺するという事件もあった。40歳のとき得度し比叡山延暦寺に入る。千日回峰に挑む前には、明治時代に死者が出て以来中断していた「常行三昧」という厳しい行を達成している。千日回峰行1973年(昭和48年)より千日回峰行を開始し、1980年(昭和55年)10月に満行した。この行の様子は1979年(昭和54年)1月5日、NHK特集『行~比叡山・千日回峰~』で放送された。しかし酒井はこれに満足せず、半年後に2度目の千日回峰行に入った。そして、1987年(昭和62年)7月、60歳という最高齢で2度目の満行を達成した。2度の回峰行を達成したものは1000年を越える比叡山の歴史の中でも3人しかいない。Mind and body Refreshing YOGA NOTEBOOK