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ハッピーちゃんは今日も元気! 皆様お元気ですか~ 今日もバレーボール勝ちましたね~ 先週会社で突然焼肉宴会があったのですが 行ってみると元天才セッターの中田 久美さんを 招待していました ただ初めからホルモンがボールにどっと出てくる店 もっといい所に招待したらいいのにね うちのハッピーちゃんも食べないかも スポーツ選手は老けやすい右に写っているのは 私ではありません~念の為 SOUL ROOM 肉体的な死 魂にとって「肉体的な死」は何もつらいことではありません。 私達の意識とは全く違う捉え方をしているのです。 私達の意識は自意識により支配されています。 自意識(自我)とは基本的に生存欲求なのですから、 私たち(自意識)は生存することを最も重要な目的として 働いています。それは人間の行動をみればわかります。 ある程度大人になった人間の場合、ほとんどの行動が 自らの安全を確保する為を前提として選択されています。 それは食欲などの基本的な欲求ばかりでなく、社会的な欲求も、 人間関係に対する欲求も、根本的なところでは、 安全に対する欲求が元になっているのです。 社会的に成功してお金持ちに成りたいと思うのも、 基本的にはお金持ちの方が安全に生きていけると 考えているからなのです。 というわけで、私達の意識は生存を続けることを 第一の目標として生きています。それは「肉体的な死」というものを、 真正面から考えることを避けるということでもあるのです。 とくに人間の本質が肉体であると勘違いしている場合はなおさらです。 死という物を出来るだけ避けなければならないという前提に立って 私達の思考(意識)が成り立っているのです。 べつにそれが悪いとは言っていないですよ。 ただ自意識の本質として生存欲求があると言うことを まず説明したかっただけです。 私達の自意識の根本的なところがそんな風に出来ているのですから、 魂にとって「肉体的な死」は何もつらいことではなく、 多くの場合すばらしいイベントであり、人生の中で最も ドラマ性の高い楽しみな部分であるといっても心情的に 理解するのはたいへん困難だということになるのです。 私たちは、永遠という一瞬の中で絶えず変化しながら、 生きることの感動を味わっています。 少々ゆがんではいますが、わかり易い言い方に変えるとこんな風に成ります。 私たちは、輪廻転生を通じて何度も何度も生まれて、成長し、 死を体験しています。 輪廻転生自体を何回も繰り返しているということです。 言ってみれば無限に生と死を繰り返しているのです。 そんなわけで、今回の輪廻転生での全ての記憶を持っている魂にとっては、 「肉体的な死」というものは特に珍しいものでもなく、 単なる一つの区切りでしかないのです。 おまけに、魂にとっては「肉体的な死」というイベントは 大きな感動を伴った出来事になるのです。 死を通して、愛を確認したり、一生での体験の総決算である 気づきをしたり、人によっては「肉体的な死」の前後にその人の 人生の価値(成果)のほとんどを体験することもありえるのです。 とくに意識的でない生き方をしてきた場合、 「肉体的な死」を通しての感動は重要になります。 たとえば、死んだ後で初めて「自分がどれくらいたくさん 愛されていたのかを実感できる」というようなこともあるのです。 だから魂にとっての「肉体的な死」は、極端な言い方で 在るのを承知で書くと、「食事の最後に出てくる、大好物のデザート」 でもあるのです。 今書いたことだけでも、自意識からの見かたしか出来ない人にとっては、 まったく何を言っているのか判らないだろうし、 私のことを気が違っていると考えるのかも知れません。 要するに自意識にとってそれだけ「死」というものを 的確に理解することは大変なのです。 まあ言ってみれば、「肉体的な死」というものは 何も悪いことではないし、なにも恐れることではないのですが、 それを完全に知ってしまうとデザートの味が落ちてしまうので こまりものです。まあ死ねば分かるんですけどね。 たちえば、テロなどで殺された人は、死を受け入れているのです。 少なくとも魂はそれを受け入れています。 何故ってそれを嫌がる理由は魂には無いのですから。 もしも魂がもっと生きることを望んだ場合、 はじめからその飛行機に乗るという選択肢は用意しないのです。 少なくとも意識的に生きている人は、絶対にその様なことで 不本意な死に方をすることはありません。 無意識に生きている人の場合、魂からの忠告を聞かずに 飛行機に乗ってしまうかも知れません。 そのばあい集合意識による創造であるテロなどのせいで 不本意な死に方を選択しなければならなかったと いうことになるということも出来るかもしれません。 しかし基本的にはその直前、あるいはその直後にはあきらめたでしょう。 この場合のあきらめるということは、集合意識に従うということです。 もしそうでなかった場合、奇跡を起こしてでも生還することは 出来たと考えられます。(それはかなり困難で在るけれど、 不可能ではないという意味です。) 人間は死んでも3次元的な肉体を捨てるだけで、 自分自身のアイデンティティを持ったまま存在を続けます。 それで多くの場合また生まれ変わって3次元の世界に戻ってきます。 それを何度も何度も繰り返します。 もちろん輪廻転生のことなのですが、これも実際は私たちの 考えているものより、もっとずっと大きなサイクルの 一環(プロセス)でしかないのです。 要するに、私たちの生命(いのち)は死なないのです。 たとえ肉体が死んでもそれはただ形を変えただけのことに過ぎないのです。 肉体の死というものは、それだけのことなのです。 死によって親しい人としばらく離れ離れになることは 悲しいことではありますが、それでさえ逝った人にとっては いつでも残った人を感じることが出来るのでそれほどの 悲しみではありません。 話がそれますが、私たちの日常会話で怖い思いをしても、 「命までとられることは無いんだから」というような言い方をします。 通常では一番怖いことは死ぬことなのです。 でもそれさえもたいしたことでは無いと判った時、 怖いものがあるのでしょうか? お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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