カテゴリ:演劇
ぼちぼち。。。
新作の方は、進んだり止まったり。 やっとちょっと主人公が主人公である理由みたいなのが浮かんだりそうでもなかったり(?) 今の段階では骨作りなので、まだ空気感はありません。 過去、どっちかと言うと雰囲気勝負な作品が多かったのですが、最近は逆ですね。 と言っても、書いてる側が勝手にそう思っているだけかもしれません。 皆さんどうかわかりませんが、吉村は急に思い浮かんで書くことが多いです。 書けなくなっていたものも、ある日突然思い浮かんだりして。 大体書けないのは、物事の理由が浮かばないからなんですが。 理由なく書いてしまうことも出来なくはないんですが、自分が納得していないものを書いてもしょうがないですもんね。 その理由というのは、直接文章に出ない場合も多いです。 でもそういう、実際には書かれていないものが、その作品の世界になるんだと思うんですね。 脚本の場合、ただ文章というのではなくて、更に、役者や演出、音響、照明といった表現が加わってくる訳です。 これは書き手としてはかなり戸惑いました。 どこまで書けばいいのか。書いていいのか。 それから、自分なりに作った世界と、全く別の世界がそこに生まれる訳ですから。 いや、全く違うというのも正しくないですね。 書き手の世界も組み込まれているのですから。 登場人物の一人一人、もちろん全員に思い入れがあります。いらない人はいません。 それを、役者さんがもう一つ命を吹き込むのです。 そして、全てが合わさって、作品と言う大きな命になります。 命は、目に見えません。 見えないけれど、そこにあると感じるものです。 自分のものだと思っていた命が、実はみんなのもので。 その「みんな」というのは、どこまでも広がっているもので。 だからこそ、最初に骨を作るというのは責任重大なんですが。 でも、なんだかそれを怖いと思ったことはないんですね。 別に名作が書けている訳でも、ヒット作を書けた訳でもないです。 観てもらうというのが前提である以上、受ける、受けない、通じる、通じないは重要です。 重要なんですが、それを目的に書いている訳ではありません。吉村はそうなのです。 でも、別に観てもらわなくたっていいとか、どうせわかるわけないとか、そういう風に捻じ曲がって、伝えることを放棄している訳でもありません。 ものすごく伝えたいことがあるという程でもないんですが、書こうと思うことがあるということは、やっぱりそれを伝えたいんだと思います。 単純に、書くのが楽しいのなら、その楽しさを伝えたいと思う。 誰にでも伝わる。というようなことは難しい。事実と言うものなら、誰にでも同じように伝わるでしょう。でも、そこに解釈であるとか、真実であるとか、感情であるとか、「人」を通した時、それは全部違うものです。なくなってしまうかもしれません。 だから、表現するという分野が生まれたのかもしれませんね。 伝えようとするものも、伝わるものも、両者が違う形のものでも、それはどちらも真実。 自分にとっての真実は、書いています。(つもりです、とか言いません) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2006年03月17日 16時49分38秒
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