同情で結ばれた関係
「同情の危険」他人に同情することに十分気をつけなさい。同情や共感は他人とともに泥沼に落ち込むことを意味するからです。ジョセフ・マーフィー同情、共感というのは、同じように感じるということです。叔母に、どうしてそんなに自分や人の不幸な話ばかりに関心があるのかと尋ねたら、本人には不幸話をしている自覚はほとんどなかったようで、そんなに話をしているかしらとびっくりしていました。人が無意識に話すときは、大抵そういうことになります。世の中にネガティブなエネルギーが満ちているので、知らない間に条件付けられてしまうからです。そして、貴方が聞きたくないのなら、そういう話はしないようにすると言ってくれましたが、友人たちの不幸話をするのは、辛い思いをした友達に対して同情しているからで、「可哀想に、可哀想に」と同情して言ってあげるのが、その人たちに対する愛情表現なのだと思っていると話していました。ああ、そういうことなのかとようやく理解できた半面、そういうお互いの不幸な面に同情し合うことだけがその相手との唯一の感情的なつながりを創っている場合、それはとても危険な関係かもしれないと思いました。もし、自分が幸福になり、それを相手に話すことになれば、相手は心から喜んではくれません。一緒に不幸でいて欲しいからです。そういう人は幸福になろうとする友人の足をひっぱることさえあります。大抵は無意識的に。心配するという形で。あるいは嫉妬による怒りをぶつけてくるかもしれません。自分の幸福な部分を、友人に妬まれ、陰口を言われることを恐れて言えないというなら、それはすでに一緒に泥沼に落ち込んでいます。私たちは、特にネガティブな感情に共感するというときに「同情する」という言葉を使います。可哀想な状況に同情する。その病気で苦しんでいることに同情する。という使い方をしても、幸福そうな状況に同情する。運のよい状況に同情する。という使い方はしません。「同情する」というのは、「可哀想だと思う」という意味になります。では、一体「可哀想だと思う」前提にはどんな人生観や人間観があるのでしょうか?その言葉を頻繁に使う人たちを観察してみると、つまりは「気まぐれで予測不可能な運命に翻弄され、悲劇的なことが起きて」可哀想に。。。というように考えているように見えます。それは自分の人生も「気まぐれで予測不可能な運命に翻弄され、悲劇的なことが起きる」可能性があるあるいは、そういうことが起きてきた。という運命に対する無力感を前提にした人生観を選択しているということです。お互いにその無力感を前提にした人生観を共有することで安心できることもあるでしょう。そして、それが互いにそれが心地よい時期は、仲の良い関係でいられるでしょう。でも、どちらかが自分の人生の責任は自分にあると思い始めたときに、それは本当に仲のよい関係であり続けられるでしょうか?あるいは、同情しあうことで築いてきた関係は、同情する必要もない素晴らしい人生を送り始めた友人に心からの祝福を送れるのでしょうか?私は昔、自分の同情心に振り回されて、自分をコントロールできなくなることがよくありました。不親切な人、優しくない人、そう思われるのをひどく恐れていたような気がします。それで、自分の心が本当には望んでいないことを、同情心のためにして、沢山の失敗をしてきました。相手のためにと思う同情心で相手にしてあげたことは、何故か大抵は裏目に出て、自分にとっても相手にとっても、結果的には傷ついたり、問題を先延ばしにするだけにしか役立たなかった感じがするし、最悪の場合、その相手との関係が破綻するという結果にもなりました。でも、スピリチュアルな人生観を取り入れるうちにいつの間にか、人に対するネガティブな同情心というものがほとんどなくなってしまいました。誰もが自分の人生を望むとおりに創り上げているのだということが分かったからです。それ以降は、同情心ではなく、信頼感や一緒にいるときの心地よさ、楽しさ、ワクワク感、共に成長している感覚、そういうものの方が大切になり、それを感じない相手とは、出来る限り出会わないように、そして関係をもたないようにしています。そして、そういう条件で厳選した友人関係とは問題がほとんど起きないし、起きたとしても、共に解決して共に成長してゆこうという姿勢で乗り越えてゆけるので、スムーズに関係が築かれてゆきます。結局は「自分らしく正直でいる」ことによってしか、それをサポートし、応援してくれる友人というのは出会えないのだと思います。明日に続く