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カテゴリ:「ジャーナリズム関連(既存・市民)」
【主旨】
【本文】
唐突に方丈記とは…。と思われるかもしれぬが、ヒエラルキーとフラットの問題である。 鴨長明が生きた平安末から鎌倉時代の初期は激動の時代だったはずだ。そんな激動の時代とはいえ、固定的なヒエラルキーが厳然としてあったであろうことを方丈記から読み取ることができないだろうか…。 僧侶は僧侶であり、貴族は貴族であり、武士は武士であり、農民は農民だったろう。 だが、それが絶対的に不幸な人と絶対的に幸福な人を生み出していたかといえば、必ずしもそうではない。 都というシステム全体のヒエラルキーは保ったまま、そこに属する個や小集団が栄枯盛衰することによって、大きな都というシステムは温存され、都というコミュニティー全体が滅亡することはなかった。 栄達の道は家柄によるという部分もあったかもしれぬが、養子縁組なども盛んであったし、「赤と黒」ではないが、僧職に入る道もあっただろう。 一方、究極のフラットな体制を求めるならば何といっても、フランス革命だ。 王・貴族・ブルジョアジー・一般市民という社会全体のヒエラルキーなシステムを壊したのが、市民革命といえるだろう。 フランス国王や王妃を次々にギロチンにかけたのち、国を統治することを任された人たちは、市民革命の思想にのっとり、フラットな組織をめざしたに違いない。 だが、フランス革命の影響が自国の市民蜂起に繋がることを怖れた近隣各国はフランスに戦争を挑んでくる。フラットな組織で議論している暇はない。結果、革命を真の勝利に導くために、ロベスピエールは強権を発動し、諸国と戦った。だが、強権の発動は、自らが王になったに等しいことをロベスピエールは知っていたから、彼は断頭台の露と消えることを甘んじて受けた。混乱したフランスを軍人であるナポレオンが収拾したのは歴史の皮肉的出来事だ。 ☆ 暴論かもしれぬが、私には次のようなことが見えてくる。
ならば、どうすべきか…。
さぁ、このように考察してきて、諸賢はどう感じられるだろうか。 私には、ヒエラルキーなシステムにフラットなシステムを付与すべきであって、フラットなシステムを根本に考えてしまうと、何も構築できぬとの結論が出る。 ☆ 余談だが…、 フラットなモデルに連結手があるものをリゾームというのかもしれぬ。リゾームの対立概念がツリー状ならば、そういうことになる。だが、リゾームはルールやモラルといった概念を持たない。 ならば、ロベスピエールが経験した挫折同様、コミュニティーを現状維持することはできたとしても、コミュニティーを時代に対応させるべく変質させることはできない。 つまり、技術革新という進化(変化)に背を向けるならば、フラットもリゾームも価値がある。 換言すれば、私たちの現代社会は、テクノロジの進化という変化を否定できぬのだから、リゾームやフラットは社会の基本構造としては価値をもたない。 勿論、だからといってフラットやリゾームという概念にまったく価値がないわけではない。 だが、ヒエラルキーに反旗を翻す勢力たちが、当面の目標としてフラット化を掲げながらも、その先に当然の帰結としての、技術発展の否定があるのだとしたら、フラットという概念は、just referenceにとどめておくべきだろう。 ☆ 「みんなが市民記者」というスローガンはフラットなシステムを想定してのことだと思う。 だが、そのフラットな思想が、対話というヒエラルキーに止揚していくツールを許容できぬというのが、オーマイニュース日本版の構造欠陥ではないだろうか。 オーマイニュースの編集部は、ロベスピエール同様に、自分がヒエラルキーな組織であることを知っている。だから、対話ができぬ。身動きがとれぬのではないか。 穿った発言かもしれぬし、実体を伴わぬのかもしれぬが、彼らを躊躇させるものにそうした根本的なものがないとはいえない。否、私の推論がまったくの見当ハズレだとしたら、それこそ軽蔑に値すると思っている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年04月14日 08時29分19秒
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