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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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Headline News

2006年09月03日
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【主旨】

BigBang氏のブログにシンポジウムのレポートがあった。
そのレポートを読んだ私は、次のように書き込んだ。

「やはり、私が行くべきだったのだろうか。
私の「市民メディアは、既存マスコミのオルタナティブ・メディアではない」。の一言で、場内の雰囲気が変わることができたのではないか…。王監督や真鍋かおりや有名人にインタビューすることはメディアごっこでしかない。市民メディアなら市民メディアなりの目の付け所でインタビューを試みるべきことがある」。


【本文】

オーマイニュース日本版の「ニュースのたね」に私の記事があがったとたんに、このブログのアクセスが1000を越えた。このサイトは、市民参加型ジャーナリズムについてしか書いていないブログである。だから、この数は市民参加型ジャーナリズム、もしくはオーマイニュースに関心を持つ人たちの数だと考えていい。
ならば、市民参加型ジャーナリズムをきっかけに、日本が理想とすべき民主主義や自由主義経済のあり方について論じていくことにする。



サッカー日本代表監督のオシムは世界の物まねではなく、日本流の戦い方をつくるべきだと言っている。結果、ブラジルやフランスを真似ることを拒否した。

総理大臣を外国人にすることはできぬから抜本的な改革は難しいが、日本は日本式の言論空間と社会の有様を目指すべきである。明治の偉人たちは性根が座っていたから、表面的にはドイツの立憲君主制やイギリスの議会制度を取り入れたが、和魂洋才などと称して、自らの精神の真髄まで改めることはなかった。きっと幕末だった少年時代に教育されたことが骨身にしみていたから変わることができなかったという事情もあっただろう…。

そして、第二次世界大戦が日本の敗戦で終結した。
日本に自由と平等という思想が入ってきた。だが、その理想とて、アメリカ本国で達成できぬ理想だったことを、多くの日本人は理解していなかった。自由や平等は理想であって、それが過度にすすめば社会は無政府状態と化し、秩序は失われ国内は荒れる。そして、他国の侵略に無防備になる。21世紀冒頭の日本人が苦しめられている物事の根本的にあるものはそういう問題である。
勿論、明治以前に時計の針を戻すことはできないし、戻したとしてもユートピアな社会が現れるわけでもない。だが、今よりももうすこしマシな世の中。合理的な世の中。納得できる世の中ができることだけは確かだといえないだろうか。



問題は、平等という理想の空虚さと弊害である。平等思想の悪弊を語る人は多いので、あえて述べることはしない。そして、大きく平等に舵を切ってしまった日本を逆に舵を切る旗印を誰も示さぬので、私は、平等の対立概念を提出する。


平等の対立概念は、「分」である。「身の丈」、「器量」である。



マザー・テレサが、「愛の対立概念は憎しみではない。無関心である」と語ったのと同様、「平等の対立概念は平等でないこと。差別や格差ではない」。
それは、昭和以降に日本にやってきた人たちが平等を求めるのではなく、差別を理由に特別待遇を受けようとしてきた現実主義をイメージすれば分かりやすい。彼らは極めて正しい。彼らは平等などという概念が絵空事なのを分かっている。だから、その論理矛盾を指摘することで利益を得ている。平等という理想にがんじがらめになった民主主義の運営者たちは彼らの軍門に下るしかないのは道理である。そのようにして、日本社会は平等という理想が絵空事であることを露呈させることはできぬから、裏交渉に応じてきたのだ。


平等の対立概念は、「分」をわきまえることである。「身の丈」や「器量」にあった目標を持ち、他人をうらやまず、それぞれの人生を地道にまっとうすることだ。





階級闘争とは簡単にいえば、別階級への嫉妬である。それは、多様な視点から世の中を見れないことからも生じる。

私の義理の姉はパートの主婦だったが、雇い先から正社員にならないかとの誘いを受けたので、その会社を辞めた。彼女は収入や雇用保険などさまざまなメリットはあるにしても、責任ある立場に立ちたくなかったのである。彼女は仕事が嫌いというのではない。ただ、会社の方針で心ならぬことを部下に強いることが嫌だったのだ。

俗諺に以下のようなものがある。
「籠に乗る人、担ぐ人。そのまた草鞋を作る人。捨てた草鞋を拾う人」。これはきっと江戸時代の街道の風景だろう。箱根の峠道かもしれぬ。この文章で我々が読み取らなければならないのは、殿様がいて、家来がいて、商工業者がいて、浮浪者(市民)がいるということではない。捨てた草鞋を拾う浮浪者(市民)が一番幸福かもしれぬということだ。
西洋の俗諺、王様は息子に「人生とは厳しいものだ」と教育するが、乞食は息子に「人生は簡単なものだ」と語るというのはアイロニーでしかないが、「籠に乗る人…」は、日本社会のポエジーである。

ヒエラルキーのそれぞれの階層でそれぞれの喜びがあり悲しみがある。それぞれの目標に向けてそれぞれが努力する。それが江戸時代に日本を訪れた外国人たちに日本人たちが幸福に見えたに違いない。



そのようなものが、第一波の明治維新。そして、第二派の敗戦によって失われてしまった。だが、社会のシステムやマスコミはそのようなものによって換骨堕胎されてしまったが、日本人の精神そのものは変わっていない。私はそれを2ちゃんねるや右左に縛られぬ言論人たちの言説に感じている。

不易流行---。
時代によって変わりいくものと、時の移ろいに関わらず永遠に変わらないもの。
いま、21世紀冒頭に対峙しているわたしたちが向き合わなければならぬ不易とは、明治維新以前の日本人の精神世界である。勿論、封建制度の昔に戻るべきだと主張しているのではない。

それぞれの個がそれぞれに精一杯生きる。その視点に立てば、他人を羨む格差社会などというテーゼの立て方は無力化する。




 インターネットの時代が到来して、誰でも自由にものが言える時代になったと思っている人が多いが、現状はそう単純ではない。
 ブログや市民参加型ジャーナリズムが台頭しているが、そのようなメディアにおいても、個の事情や、国語力のなさなどから自由な発言ができない。
 政府や良識ある人たちは、発信者に実名を求めたり、国語力のなさを指摘して、「誰でも自由にものが言える」時代の到来を阻害している。
 だが、「誰でも自由にものが言える」時代が到来しなければ、社会は進歩していかないし、健全な民主主義は実現しない。
 筆者は「誰でも自由にものが言える日本」の実現のために努力すると言明しているが、その実際は、「切実な者以外けっして発言してはならぬ」という時代なのかもしれない。






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Last updated  2007年04月14日 08時23分56秒
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