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カテゴリ:「ジャーナリズム関連(既存・市民)」
私はシンポジウムに参加していないので、詳しい内容は分からぬが、佐々木氏やガ島氏が鳥越俊太郎氏を論難する。という構造だったらしい。 私がそのような場にいたならば、きっと鳥越俊太郎氏側の論陣として参加していただろう。 世の中はディベートばやりである。私が鳥越氏側にたって論を立てる一貫性のなさを批判することはできぬのだ。 ☆ 私にとって鳥越編集長は私の父親の世代である。鳥越氏は九州の財閥の御曹司。私の父の本家は没落してしまったが、かつて北前貿易に連なる地方都市の財閥だった。戦前を知る人たちに、いまでもそのことを揶揄されて従兄弟たちは嘆いている…。 きっと金沢大学を出た私の父と京都大学を出た鳥越氏のイデオロギー的立場はかなり近いだろう。 いま、地方都市で暮らす父と私は絶縁状態にある。まだ親交があったとき、一緒にスキー場に向かった。 その頃、ベルリンの壁が崩壊した。助手席に座る父は、「若い頃にぼくたちが理想に掲げていたものは、間違っていたんだよな…」と嘆いた。ハンドルを握る私は、「共産主義や社会主義の理想が間違っていたわけじゃないよ。現実への対応に失敗しただけだ。自由主義経済だって、問題は沢山あるし、理想としての左翼は間違っていない」と言ったのを憶えている。 ☆
共産主義国家たちにおいて、イデオロギーな言論が現実と乖離していき、結果、ベルリンの壁が崩壊するに至った。 では、右左というイデオロギーの対立がなくなったとき、言論の場はリアルな現実と向き合うことができるのか。と期待したが、そうではなかった。 右左というイデオロギーの争点がなくなれば、実証的で合理的、論理的な言論の場が現出するのではなく、イデオロギーが無力化した後に言論の場を横溢したのは、エバンジェリックな言論だった。 ☆ たとえば、OSについて議論をする。 メインストリームな言論の場では、マイクロソフトvsマッキントッシュであって、マイクロソフトvsリナックスではない。なぜなら、リナックスがエバンジェリックな言論の場に参加する権利を持たないからだ。 それはビジネスの場ばかりではない。大学教授たちも卒業生たちの就職先を考えるから、リナックスなどというフリーターを増加させる話題に積極的になる訳もない。 ☆ たとえば、歯磨き粉を何にしましょうかという特集を組んだとする。 きっと、サンスターやライオンや花王の製品がリストアップされるだろう。でも、そこに、塩で磨くとか、私のように、歯磨き粉をつけるために歯磨きの回数が減るよりも、何もつけずに何度も磨いたほうがいい。などという言論の入り込む隙間はない。 論点は少しずれるが、押し付けタイプの広告ではなく、消費者の興味があるものを広告するのが、これからの広告の主流だという。たとえば、国内旅行に一度行くと、九州に旅行した人なら、今度は四国はどうですか、沖縄はどうですか、それとも海外はどうですか。お金かあるんだから、宝石を買いませんか。などというダイレクトメールがやってくるようになる。そのような情報の使われ方というのは、極めてエバンジェリックなものだと私には思われる。 だが、エバンジェリックでない選択肢もある。たとえば、夏に九州に旅行した人には、夏に旅行していないで、先祖の墓参りをしたらどうですか。という提案もできる。宝石を買った人に、宝飾品で身を着飾ることよりも、奉仕活動をすることで、見てくれでなく中身を高めることのほうが価値がありませんか。という提案もありだろう。 勿論、市井のレベルではそのようなコミュニケーションはごく普通に行われているだろう。だが、それを言論の場に持ち込む人はほとんどいない。それが現状である。 フラットという構造が水平思考を尊ぶならば、そのような言論の場を模索する視点があっていい。 ☆
議論の目的は勝ち負けではなく、解決策を得ることである。妥協などという言葉があるが、その言葉は正しくない。お互いの「気づき」の中から新しい言論が生まれ、それに議論の参加者たちがお互いの立場を越えて共感するのだ。 そして、勝ちを意識するあまり、相手を打ち負かすためなら論も広げるし、自説に不利になる事実は参照すらしない。参照しても自分に勝ち目がない事柄ならば無視する。 ☆ 問題点はいくつかあるが、「みんなが市民記者」というスローガンならば、オープン+フラットは必定。というのが、ガ島氏や佐々木氏の主張なのだと思う。 しかし、彼らが本当にそのことを思っているならば、駒澤大学の山口先生の「佐々木氏はフラットな言論の場をトップダウンでやろうとしている」という矛盾の指摘に誠実に答えるべきだろう。 同様に、ガ島氏もアルファブロガーな視点で言論に参加しているならば、コメント欄を閉じたり、TBに制限を加えるという行動が、自己矛盾に陥っていることを自らの問題として誠実に捉え、なんらかの言論を展開すべきだ。
私は「ダヴィンチコード」同様、隠されたものに意味があると思うが、直裁的にいえば、無名以下の価値ということだ。 ☆ 私は、gooRSSリーダーを使っているが、キーワードを「オーマイニュース」とした欄には、私のブログのエントリーが載っている。湯川氏によれば、RSSリーダーを使う人は、まだ1割ぐらいだという。事実、BigBangさんのサイトは土日で10000アクセスを示したそうだが、私は、土日で1300ほどである。それにしても、それまでのアクセス数からいえば、数倍の数である。 結局のところ、ガ島氏がリファレンスとして無視しTBを拒否しても、言論はひろがっていく事実をメディアの専門家であろうとするならば、認めなければならない。そして、その認識に立たなければ、「みんなが市民」などというスローガンは成立しないし、オーマイニュース日本版の改善策も得られない。
そして、そこまで論を展開してくると、今回のテーマが何故、結論がついているともいえる「実名論議」だったのかが明確に分かってくるのです。そして、何故、彼らが右左を争点にして時間を費やしたのかも…。 ☆ 自らを反省しつつ記すならば、いくつかのサイトを巡って、佐々木氏の言論に触れた中で、佐々木氏が正しいことを言っている部分も多々ある。だが、そのことをわたしは論述の都合上述べていない。勿論、論旨が弱まるという私の個の事情によってだ。 重要度の勘案もあって、そのような結果になったのだが、佐々木氏の論理も問題点の提出もいくつかは私と共通点があるし、いくつかは私と相違点がある。それは、きっとガ島氏についても同じことだろう。
☆ 私は、鳥越俊太郎編集長を擁護する。 それは、自らがイデオロギーの囚われ人であることを隠していないという誠実さにおいてである。 私も都道府県の数ははっきりと憶えていないし、女子アナのスカートの中身に興味はある。それが人間だし、それでいいじゃないか。 まちがったら謝ればいいし、謝ることが他人に迷惑をかけるならば、頭を掻いてごまかせばいい。 彼がJANJANやライブドアPJを知らぬと言ったことに会場は唖然としたというが、そもそもリファレンスとすべき価値なんてない。彼は、そのような造作の悪さを露呈しながらもテレビに出続ける。こんな誠実さはない。彼の風貌の颯爽さに騙されてはいけないのだ。 ☆ 恐らく、私が彼ほどの年齢になったときは、若者たちからマジに叩かれる。そんな雄雄しい漢(おとこ)でありたいと思っている。 日本財団の笹川陽平氏は、父の良一氏の生前のバッシングを回想して、「生きている間に評価される人など、たいしたことはないですよ」と語ったという。 誰がどうみても「負け戦な戦い」に参戦した鳥越氏を、誰も評価しないことが私には不思議である。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年09月06日 17時06分33秒
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