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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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Headline News

2006年09月08日
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×ブロガーシンポジウムのパネリストの方々と私の対話が成立していない。そして、オーマイニュース日本版においても、編集部と市民記者の対話はオープンではないし、市民記者同士の対話の場もない。

私は、それらエスタブリッシュとの対話、非エスタブリッシュとの対話の両方を模索してきた。だが、それが果たせぬことであることが分かってきた。その理由は簡単である。対話の相手方が、私と対話することに何らの価値を見出さないということだ。


・エスタブリッシュメントな人たちは、論破される可能性があるので無視し続ける。私は、ステークホルダー(利害関係)が異なることに起因するお互いの意見が対照されればいいぐらいの気持ちでいるのだが、相手方はそうではないらしく、徹底的に無視する。

・非エスタブリッシュな人たちは、無名な私と対話してもうれしくない。そして、「パンピーのくせに偉そうに物を言いやがって」と嫌悪する。

・エスタブリッシュな人たちの周りの人たちは、私の意見や存在をエスタブリッシュに伝えない。



唯一の例外は時事通信社の湯川さんで、彼はニュートラルな通信社記者の立場だから、私のことを面白いと感じてくれた。彼は、アメリカ生活が長く、日本のエスタブリッシュな人間関係の囚われ人ではなかったから、比較的自由に振舞うことができたのだろう。

そして、湯川さんが自著「ブログがジャーナリズムを変える」(NTT出版)の200ページに、私のコメントとして記載したのが、「野党的言論から与党的言論へ」という言葉である。



ノラナイニュースというサイトが登場したようだ。

私はライブドアPJのときにmixi上で非掲載ニュースを市民記者同士で共有することで記事のグレードアップをめざしていた時期がある。ノラナイニュースの運営者の意図は分からないが、市民記者同士で問題を共有するとともに、編集過程のオープン性を確保するとともに、透明性をあげることがネット文化では当然の方向性であることを示しているだろう。

ただ、私のライブドアPJでの経験をいえば、市民記者同士でグレードアップされた記事を再投稿したとしても、その記事がアップされることはない。その理由は、オーマイニュースの編集部が、市民記者やネット上の無名の個たちが編集作業をすることを自分たちの権利を侵す行為であると考えるに違いないからだ。
だが、インターネットの精神やウェブ2.0の理想に従うならば、無名のボランティアたちが、自分たちの記事の瑕を修正しあって、より品質の高い記事をつくることに感謝すべきであって、自らの権利が奪われるなどと敵愾心を燃やすことは、自分たちの時代遅れの感覚の持ち主であることを露呈させることでしかない。
参考までにいえば、JANJANはマルチポストを禁じているから、記事が本サイト以外でアップされたなら、その時点でアウトである。オーマイニュース日本版はどうなのか…。



とはいえ、ノラナイニュースを讃美してばかり行くわけにも行かぬ。というのも、運営者は、ほんとうに良い記事を生み出すことのためにこのサイトをつくったのかといえば、必ずしもそうではないと、思えるからだ。

ライブドアPJのときも、2ちゃんねるでスレッドが林立するとともに、Wikiに市民記者のデータベースができた。それらが誕生した動機は、プラスのエネルギーに満ちた建設的なものではなかった。その必定からいえば、ノラナイニュースを誕生させた動機、そこに集う人たちの動機たちは、オーマイニュース日本版を批判する直情のためにつくられたという可能性が高い。このことは、ノラナイニュースが、オーマイニュース日本版に載らなかった記事をブラッシュアップさせるシステムや思想を用意していないことから推理できる。

誕生のキッカケが劣情でもいい。しかし、それが多くの人の眼にふれるものになるならば、劣情をプラスのエネルギーに変える努力が必要だと、私は思う。



湯川氏に言った「与党的言論と野党的言論」というのは、以下。


野党的言論が反論だけにとどまり、解決策を提示しないなら価値はない。解決策も持たぬのに現状を批判・否定するのは無責任である。
リアルな世界は矛盾に満ちている。だから、およそ実行策というのは矛盾を孕んだものであり、何がしかの疑問や反論の余地を残している。しかし、それが考える限りの最善の策であるならば、その策を実行しなければならぬ。それが与党の立場だ。

一方の野党的言論の主たちは、千差万別の反対意見を持っている。そこで多数派を占める与党に対抗するには分裂していてはダメ。結果、国共合作よろしく大同団結する。最初から言論の乖離が激しいもの同志の集まりであるから、お互いの言論の細かい差異を気にしていたら、手を結ぶことなどできぬ。自説同士の細かい差異に眼をつぶったとき、お互いを結びつけるものは理想である。理想が現実に近ければ近いほど矛盾を孕むのだから、結果、野党勢力たちが掲げる理想は次第に現実から乖離したものになっていく。


ようやく、非武装中立などという理念で野党勢力の人たちが手を結ぶことはなくなったが、基本的にそういう集団の行動力学が働いていると推理できる。

そして、あたらな理想として「格差社会の解消」などというテーゼを野党勢力が立ちあげた…。
多様な働き方の現実に画一的な報酬を求めることの矛盾を誰も指摘しない。



薩長藩閥政治の時代でもあるまいに、21世紀の日本が、権力を持った人たちの利権や傲慢だけで動いているはずはない。
この情報化時代である。もし、トップに立った人たちがそのような思惑で権力を行使すれば、たちまちその座を追われる。それは政府であっても、官僚であっても、企業であっても変わらない。
そのような社会の実情を省みない既存マスコミは、一方的な体制批判や解決策や実行策の伴わない言論を発し続ける。それが野党的ジャーナリズムである。

だが、これからのジャーナリズムはそうであってはならぬというのが、既存のマスコミに対しての私の警句でもあるが、それはそのまま、市民参加型ジャーナリズムの目標にもなる。



実行を想定しない言論が世の中が闊歩することは危うし、その実行は避けねばならぬ。そして、そもそも実行を想定しない言論に価値はない。

ならば、エスタブリッシュ・非エスタブリッシュ・オーソライズ・非オーソライズを問わず、市井のさまざまな言論がインテグレート(収斂)していくことにより、世論を形成し、世の中や政治を動かしていくこと。
それが、もしジャーナリストが21世紀も社会から必要とされるのならば、担うべき仕事である。



その理想と対照するなら、オーマイニュース日本版もノラナイニュースも同じ。ともに、インテグレート機能を持たない、単なる情報提示に終わっている。言論の拡散機能。希釈機能しかない。

否。インターネットの無限の地平では分母はあらかじめ無限大なのだから、情報の拡散を出資者たちが目論んだとしても無意味。ならば、何のためにオーマイニュース日本版を誕生させたのか…。

私には理解できない。





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Last updated  2007年04月14日 08時18分29秒
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