産経新聞に期待している。野党的ジャーナリズムが横溢する日本のマスコミにあって、存在感をしめしていると思う。そこで、購読新聞を日経新聞から産経新聞に変えた。だから、私の手元には、体脂肪ボール目覚まし時計がある。つまり、半年契約をしたのだ。そして、その新聞社がつくったイザというブログに期待して、ブログをはじめた。そして、産経新聞のイザ・ペーパーという記事が眼に入った。イザ・ペーパーは明らかに広告ページである。そのことを自らのエントリーに乗せるとともに、同時期に社長がweb人of the yearを受賞したというブログにTBした。
【タイトル】好事魔多し。祝・WEB人 of the year。でも、マンセー記事はやめましょう。
【本文】イザの社長がWEB人of the yearに選出されたとのことおめでとうございます。
さて、本日の「イザ・ペーパー」の「ブログ武器にブレーク狙え」につき、苦言もうしあげます。イザペーパーはタイアップページ扱いなのでしょうか。それとも、一般記事なのでしょうか。タイアップ記事ならば、はっきりとタイアップ記事であると明記すべきだと思います。
記事では、芸能人がブログを開設することによってファン層の拡大をはかっているとこととともに、それが芸能人の親しみやすさにつながっているとの印象を語っています。
しかし、現実は必ずしもそうではないことをこの記事を書いた記者の方はご存知ないのでしょうか。
ブログの特長は簡単に書き込めることと、コメント欄で読者とコミュニケーションがとれること。そして、トラックバックによって、同じ興味を持ったブロガーと意見を対照できることです。
しかし、ブログの女王と呼ばれる真鍋かおり氏を筆頭に有名芸能人でブログをやっている人の中には、コメント欄を閉じている人が殆どです。また、トラックバックも機能しているかどうか定かではありません。たとえば、1000を越えるトラックバックが張られた場合、それらをたどることは不可能なわけで、トラックバック機能は無価値になっているといえるのかもしれません。
ほとんどの芸能人はコメント欄を閉じていますが、不用意にブログを始めた芸能人や有名人の中には、手前勝手な意見をブログに書いたために、非難する意見がコメント欄に多数押し寄せるというケースが続出しています。
たとえば、日本テレビの元アナウンサー氏が、盗撮事件をおこした日本テレビ社員を擁護するブログを書いたケース。
宮崎あおい氏の彼氏が、感情的に日韓関係に関する意見を書いたケース。
吉本の若手お笑い芸人が、お客さんとはわがままなものであり、家族や友達のほうが大切なものであると書いたケース。
障害者のスポーツコメンテータが、皇族の男子誕生は祝賀すべきことではないと書いたケース。
冬季オリンピックの女子選手が、ボクシングのルールも分からないのに、亀田氏の勝利を擁護したケース。
…などなど、枚挙にいとまがありません。
たとえタイアップページであろうとも、不用意にブログを始めて、暴論を展開するならば、いつか大きな反発を受けてダメージを受ける可能性があることは説明すべきではないでしょうか。
私はそのような但し書きもつけないで、ブログ讃美をすることが、結果として個の言論の場を狭めていく予感がしてなりません。
私が主に展開しているブログでは、アルファブロガーと呼ばれるひとたちや、ウェブ2.0の提唱者となっている人たちが、コメント欄を閉じていたり、自分に都合の悪いトラックバックを拒否していることを批判しています。
勿論、これからまだまだブログユーザーは伸びていく余地があるし、そのためのプロモーションをすべきなのかもしれませんが、そういう警句を鳴らしながらプロモーションをしないのであれば、多くの人たち傷つけ・陥れることになるのではないかと思うのです。
編集部のみなさんのご意見をお伺いしたいと思います。
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それまで、私のブログには副編集長さんという方のコメントがあった。だが、今回のエントリーについては、TBの反応もないし、コメントも一切ない。イザも対話を拒絶している。
「ブルータスお前もか」ではないが、「イザもコミュニケーションを拒絶するメディアであったか」と、私は嘆かざるをえないのか…。
対話とは弁証法である。正、反、合のプロセスがあってはじめて、価値ある結論が導き出される。反のプロセスを怖れて対話をしないのでは社会の進歩はない。正が合に変わることを自らに許さぬようなことがあっていいのか。
対話とは勝ち負けを争うようなディベートではない。お互いにとって有用な結論を導き出す建設的なコミュニケーションなのだ。そのことを念頭に、対話を始めるべきではないのか。
そして、コミュニケーションを逃げないことだけが、21世紀のわたしたちの社会にとっての唯一の合意事項ではないのか…。
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その後、
イザに寄せ書きというエントリーができた。
私は、次のようにコメントした。
阿部編集長 ご受賞おめでとうございます。
しかし、私としては、受賞理由があまりよく分かりません。
受賞理由がどういうことだったのか、明確にしていただけると嬉しいです。
というのも、既存メディアのつくるものとしては、上出来だとしても、ネット的に考えると、どうなのかなぁ…。と、どうしても思えるのです。
たとえば、mixiのように、登録者が少数な場合は機能していたが、多数になった場合に、秩序が保たれるのかといえば、同じ問題を抱えていると思います。
また、イザでコミュニティーがあることを感じません。
イザ・ザ・ペーパーで、ブログの良い面ばかりを書き連ねた記事が載っていましたよね。どうようなことがイザでも起きていないといえないのでしょうか。
たとえば、私がトラックバックしたものについても、なんらコミュニケーションが成立していかない。それってどうなのかな。
と、考える次第です。
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私のコメントによって、寄せ書きの新規書きこみはぱたりと止まった。
そこで、次のようにコメントした。
私がコメントを書いてから、丸一日以上書きこみがありませんね。そして、編集者の方からもなんら反応がないという状況のようです。
時事通信社の湯川鶴章さんは、ネット時代にジャーナリスムに求められるものは対話だと指摘しています。
きっと、同じ思いから産経新聞はイザをつくったし、記者さんたちもブログを始めたのだと思います。
しかし、その実行段階になると、ほんの少しの意見の乖離でも、対話ができない。それって悲しいと思いませんか。
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私が、5月に女流小説家のブログにTBしたら、その読者から多くの批判コメントが来ました。私がTBは、ブロガーのオフ会の実情を書いたもの。文章の拙さはあったにしても、その会に出席した多くの人たちの気持ちをそのまま書いたものでした。しかし、沸き起こったのは、事実であろうとなかろうと、「批判するTBをあげることはNo」というようなコメント群でした。
私は今もって、そのような反対意見に感謝の気持ちを持ち続けています。それは、反対する意見は私に気づきを与えてくれるからです。しかし、その一方で、ネット上の多くのブログのコメント欄において、対話がなされないのならば、コメント欄を開けていても意味はないのではないか。と、思っています。
いまのネット上の問題は次のようになります。
「みんなで自由に意見を出し合う場をつくりました」と言っておきながら、自分に都合の悪い意見が出たら、その場を閉じてしまうこと。
ブログの女王や、アルファブロガーという人たちの多くがコメント欄を閉じている。それを指摘せずにブログを讃美することを私はエバンジェリック(業界御用達)的であると嫌悪します。
もし、多くの人たちがブログの不備を感じているのなら、コメント欄もTB欄もないブログ2.0をつくればいいのです。でも、それが理想と乖離するなら、運用で対応すればいいのです。
そのようなムーブメントをイザを中心にもりあげていきませんか?
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少し前におきた、メイル誤配に関わるエントリー削除依頼の問題にしても、ユーザーとともにみんなで考えることはできたはずです。
イザはオープン&フラットを目指しているなら、将来において、そういうヒエラルキルな思想は必ず発展のための大きな障害になるはずです。
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対話とコミュニケーション。
それがイザの目標ではないのですか。
対話を恐れていては何もはじまらないと思うのですが…。
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対話を恐れるあまりコミュニケーションを拒絶するメディア。
実名をもとにオープン性を拒否するメディア。
それが21世紀のメインストリームになることはありえない。
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「正」、「反」の厳しいしのぎ合いから、すばらしい「合」が生まれる。
「正」は、それのみで、「正」であることを証明できぬのだから、そのためにも、「反」は必要なのだ。