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2006年09月28日
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カテゴリ:「武術的議論」
有馬頼底の「よくわかる茶席の禅語」(主婦の友社)というのを読んでいる。
お茶とは有職故実に過ぎぬと思っていたが、遠州小堀流の武家茶道など、禅茶の精神は参考になる。
というのも、インターネットにおける自由な言論空間とは、下剋上であり、戦国時代だからだ。群雄割拠の中で、徒党を組むこともできずにいる私は、さしずめ仕官ままならぬ宮本武蔵というところか。できるものなら、藤堂高虎のような処世を編んでみたいものだ。

さて、この本では、茶席における掛け軸の話題を取り上げている。その中で、心に響いてきたのは、「無賓主」「主人公」「喫茶去」である。



【無賓主】

無賓主とは、主客の別がないこと。お客はお客。亭主は亭主の本分を保ちながら、しかも何の隔たりもない。実にわきあいあいとした境地。ただし、客も主人もあるものか、猫も杓子も皆一緒ということではない。
正客でもないのに、余計な口を挟む客がいるかと思えば、亭主は客を無視して、一方的に道具の自慢話をする。そのようなものであってはならぬ。
客も主も歴然とあって、しかも客と主の差別をまったく感じさせない世界。それが、無賓主という。


ブログにおける管理人とコメント者、TB者。市民参加型ジャーナリズムにおける運営者、市民記者の関係を考えるとき、大いに参考にできるのではないか。



【主人公】

主人公とはドラマや映画でつかわれる言葉だが、目覚めていること、覚醒していることをさす。つまり、自分ではない何物かの傀儡になっていたり、寝ぼけていてはダメということ。


覚醒しているにも関わらず、自分ではない何物(ステークホルダー、思想、団体、宗教etc.)かの傀儡になっている例が珍しくない。それをディベートなどといって擁護する時代の雰囲気もある。
2ちゃんねるで批判の矢面に立つ工作員などは、自ら考えることを放棄した人たちであり、主人公ではない。自作自演は自分のクローンを作り出すこと。一人の人間はひとつの主人公にしかなれぬという、ものの道理に反することである。



【喫茶去】

趙州禅師は、雲水(修行僧)に「喫茶去」といったという。
禅師の趣旨は、「もうこんなくだらない議論、口先だけの質疑応答はやめにしようじゃないか、そんな無駄な時間を使うぐらいだったら、お茶でも飲みに行こう。と、議論に終止符を打つ意味があったのではないか」と、有馬氏は解釈する。


2ちゃんねるのアスキーアートを批判する言説がある。だが、私は、それらは、閑話休題。もしくは、ランドマーク的な価値を見出していた。
今年の4月のことか、権威あるイギリスのタイムスオンラインのリチャードロイドバリー記者の記事のコメント欄にアスキーアートが載るのは痛快であったが、その痛快さの源泉は、喫茶去の精神である。
禅味を理解しない英国人には分からぬかもしれぬ…。




茶席は一期一会をもてなしの中心的支柱にすえているが、インターネットはログが残るので一期一会ではない。
ウィキペディアは削除依頼もできる。だが、グーグルはコミュニケーションを断つことを許さない。(もしグーグル検索に削除依頼ができる時代になったら、そのときこそインターネットが死んだことになる。)

ならば、茶の湯の精神というものは、利休の暮らした時代よりも、もっと重要であるに違いない。


追記:
湯川さんからお茶にさそわれているので、こんなエントリーになってしまった。まさに喫茶去ということか…。







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Last updated  2006年09月28日 14時44分44秒
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