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カテゴリ:「武術的議論」
有馬頼底の「よくわかる茶席の禅語」(主婦の友社)というのを読んでいる。
お茶とは有職故実に過ぎぬと思っていたが、遠州小堀流の武家茶道など、禅茶の精神は参考になる。 というのも、インターネットにおける自由な言論空間とは、下剋上であり、戦国時代だからだ。群雄割拠の中で、徒党を組むこともできずにいる私は、さしずめ仕官ままならぬ宮本武蔵というところか。できるものなら、藤堂高虎のような処世を編んでみたいものだ。 さて、この本では、茶席における掛け軸の話題を取り上げている。その中で、心に響いてきたのは、「無賓主」「主人公」「喫茶去」である。 ☆
ブログにおける管理人とコメント者、TB者。市民参加型ジャーナリズムにおける運営者、市民記者の関係を考えるとき、大いに参考にできるのではないか。
覚醒しているにも関わらず、自分ではない何物(ステークホルダー、思想、団体、宗教etc.)かの傀儡になっている例が珍しくない。それをディベートなどといって擁護する時代の雰囲気もある。 2ちゃんねるで批判の矢面に立つ工作員などは、自ら考えることを放棄した人たちであり、主人公ではない。自作自演は自分のクローンを作り出すこと。一人の人間はひとつの主人公にしかなれぬという、ものの道理に反することである。
2ちゃんねるのアスキーアートを批判する言説がある。だが、私は、それらは、閑話休題。もしくは、ランドマーク的な価値を見出していた。 今年の4月のことか、権威あるイギリスのタイムスオンラインのリチャードロイドバリー記者の記事のコメント欄にアスキーアートが載るのは痛快であったが、その痛快さの源泉は、喫茶去の精神である。 禅味を理解しない英国人には分からぬかもしれぬ…。 ☆ 茶席は一期一会をもてなしの中心的支柱にすえているが、インターネットはログが残るので一期一会ではない。 ウィキペディアは削除依頼もできる。だが、グーグルはコミュニケーションを断つことを許さない。(もしグーグル検索に削除依頼ができる時代になったら、そのときこそインターネットが死んだことになる。) ならば、茶の湯の精神というものは、利休の暮らした時代よりも、もっと重要であるに違いない。 追記: 湯川さんからお茶にさそわれているので、こんなエントリーになってしまった。まさに喫茶去ということか…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006年09月28日 14時44分44秒
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