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カテゴリ:「武術的議論」
滝川市で小学校6年生の女児が自殺し、遺書が発見されていたことが分かった。 マスコミは、当該小学校にいじめがあったことを認めなかった教育委員会・学校関係者たちを批判している。 TBSの、みの氏やスタジオに陣取る弁護士は、学校を管理・運営する側の保身を指摘していた。 だが…。である。
問題は、対話・議論の構造である。 ☆ 夫婦喧嘩では、多数決は成立しない。だから、すべての情報を共有しても合議にいたらぬ場合は、どちらかが折れることでよってのみ、結論が導き出される。 子どもができ、多数決で結論が出るような人数に家族構成になったとしても、ステークホルダーである子どもが客観的な判断を下せるはずはない…。 ☆ ディベートは、判定役がいなければ勝敗は決しない。結論は導き出されない。 そもそもディベートは勝ち負けを争うものであり、お互いの和解をめざすものだったり、解決策・再発防止策を生み出すものではない。 ☆
そのようなことを考えれば、対話しても再発防止策を導き出すことはもちろん、事件関係者の相互理解は望めない。 ならば、対話をしても、トカゲの尻尾切りよろしく、自分たちが責任を負うだけだ。 ならば、滝川市教育委員会のような結論になって当たり前だ。 しかし、新聞で報道され、マスコミで叩かれれば、状況は変わる。 昨日、滝川市の学校関係者が、それまでの姿勢を撤回して、いじめを認め、謝罪したのも論理的帰結である。けっしてご都合主義ではない。 閉じられたコミュニティーの論理的帰結として、事件の隠蔽が行われ、被害者家族との対話が拒否された。 だから、学校関係者を批判しても、何の解決策にはならぬ。 ☆ ならば、解決策は簡単である。
かつて、日本人はステークホルダーから自由になることで問題の解決を図ることの重要性に気づいていた。 ジョージ・ワシントンが、叱られることを覚悟で自分が桜の枝を折ったことを正直に白状した挿話が広く知られているのはそういうことだ。 ☆ 民主党もテレビのワイドショーも新聞も現実を批判するだけ…。ディベイト礼賛の昨今のムードの中でその傾向は強まっている。だが、それでは世の中はよい方向には向かっていかない。 そして、実は、そういうディベイトの審査員である一般大衆が議決権を行使する場がなければ、ディベートさえ成立していないのだ。 ☆
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Last updated
2006年11月05日 22時10分28秒
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