000000 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x
X

PR

Freepage List

Category

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

スポンタ

スポンタ

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません

Comments

コメントに書き込みはありません。

Headline News

2006年10月06日
XML
カテゴリ:「武術的議論」

滝川市で小学校6年生の女児が自殺し、遺書が発見されていたことが分かった。
マスコミは、当該小学校にいじめがあったことを認めなかった教育委員会・学校関係者たちを批判している。
TBSの、みの氏やスタジオに陣取る弁護士は、学校を管理・運営する側の保身を指摘していた。

だが…。である。


私は、大学という人文的な高等教育を受けた彼らの中に、保身で批判されることを想定する人が一人としていなかったとは、とうてい考えられない。ならば、保身だと批判されるかもしれぬが、「自殺児童の保護者との対話を拒絶することが、最善の選択肢である」という結論をしていたと分析する。



問題は、対話・議論の構造である。



夫婦喧嘩では、多数決は成立しない。だから、すべての情報を共有しても合議にいたらぬ場合は、どちらかが折れることでよってのみ、結論が導き出される。
子どもができ、多数決で結論が出るような人数に家族構成になったとしても、ステークホルダーである子どもが客観的な判断を下せるはずはない…。



ディベートは、判定役がいなければ勝敗は決しない。結論は導き出されない。
そもそもディベートは勝ち負けを争うものであり、お互いの和解をめざすものだったり、解決策・再発防止策を生み出すものではない。




当該案件は、自殺児童の保護者は告訴する側であり、学校関係者は告訴される側である。それぞれが内省的になり、事件の確認をし、同様案件の再発を防ぐために解決策を見出そうとするならば、対話をすることにも意味がある。
だが、たとえ学校関係者が内省し対話を受け入れたとしても、当該保護者の側が内省的になることとは無関係である。全国の公立小中学校に常識を逸した保護者たちが押し寄せ、学校の現場が大混乱に陥っているにも関わらず、公立学校教育が市民サービスの一環として受け入れられており、反駁できぬ現場(学校関係者)の日常がある。



そのようなことを考えれば、対話しても再発防止策を導き出すことはもちろん、事件関係者の相互理解は望めない。
ならば、対話をしても、トカゲの尻尾切りよろしく、自分たちが責任を負うだけだ。
ならば、滝川市教育委員会のような結論になって当たり前だ。

しかし、新聞で報道され、マスコミで叩かれれば、状況は変わる。
昨日、滝川市の学校関係者が、それまでの姿勢を撤回して、いじめを認め、謝罪したのも論理的帰結である。けっしてご都合主義ではない。

閉じられたコミュニティーの論理的帰結として、事件の隠蔽が行われ、被害者家族との対話が拒否された。
だから、学校関係者を批判しても、何の解決策にはならぬ。



ならば、解決策は簡単である。


それぞれの立場の人たちが、それぞれに内省的になること。自分たちの利害関係(ステークホルダー)から自由になって対話することである。



かつて、日本人はステークホルダーから自由になることで問題の解決を図ることの重要性に気づいていた。
ジョージ・ワシントンが、叱られることを覚悟で自分が桜の枝を折ったことを正直に白状した挿話が広く知られているのはそういうことだ。



民主党もテレビのワイドショーも新聞も現実を批判するだけ…。ディベイト礼賛の昨今のムードの中でその傾向は強まっている。だが、それでは世の中はよい方向には向かっていかない。
そして、実は、そういうディベイトの審査員である一般大衆が議決権を行使する場がなければ、ディベートさえ成立していないのだ。



「のりつっこみ(個レベルの弁証法)」が出来る議論の場。そういう自由自在な議論ができる日本になって欲しいものだ。








お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2006年11月05日 22時10分28秒
[「武術的議論」] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.
X