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2006年10月29日
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カテゴリ:「武術的議論」
甲野氏の著作を10冊以上読んでいる。
そのうち、NHK人間講座のテキストが甲野氏の思想を一番端的に示していると感じている。

甲野氏は人文主義的に偏った日本の言論空間に大きな疑問符を打っている。いままで言論において身体性が論じられることもあったが、甲野氏のように実践をともなうものはなかった。

身体性が論じられるなかで、動物的生理が論じられることが多かったが、そういうものとも違う。身体性が霊性を伴うことにより神秘主義に陥るものもあった。だが、甲野氏はそれとも違う。
武士道のそこにある武術。そして、その底にある禅。老荘思想。それらに通じなければ甲野氏を理解することはできぬだろう。



かつて、本当に強いものしか言論することはできなかった。弱いものが理を説くこと権利はなかったのだ。
だから、剣について語れるものは、武を極めたものであって、理を極めただけでは発言することはできなかった。
真理谷円四郎は、「仕合とは相対するという不自然を自然にすることだ」と説いたが、そのようなことを言えたのは、彼が1000回仕合をして一度も負けなかったからである。
甲野氏は独特の思索を続けるが、その思索が他者の思索と次元が異なるのは、そういう技の修行の先に体得したものだからだろう。



人文主義ですすめられてきた日本の文化は窮屈になっている。
ならば、身体性も動員すべきである。そして、それは奇異なことではなく、江戸以前に当然のようにあったものである。彼は古文書の中にそれを探すの中ではなく、自らの肉体と感覚の中にそれを求める。
甲野氏が身体研究を通じてたどり着きたいのは、そういう真理である。



「人文主義の袋小路を抜けろ」と表題に書いた。
人文主義が限界に来ていることは誰もが納得するところである。では、どうすればいいのか。

それを霊性に求めることは、オウム真理教の暴走でなかなか難しいことが分かった。つまり、霊性の世界は、分かる人には分かる世界であって、証明も反証も不可能だからだ。また、霊性を論理で理解しようとする宗教も出ている。だが、そういうものもある種のペテン性と隣りあわせでいる。
人文主義の桎梏を感じた若者たちが、自分だけが現代社会の根本的問題に対峙していると天狗になって、オウム真理教というペテンに走った。それこそ、個が身体性を伴わずに存在してしてまった典型的なケースだろう。
人文主義の桎梏を抜け、身体性をまとえば、自殺も減るし、援助交際にも一定の抑止効果が期待できる。

簡単にいえば、身体性というオカルトを体験してしまえば、学習雑誌が発行する雑誌「ムー」のまことしやかなオカルトなど、浅薄なものであると看破できるということだ。

※オウム出自のブログ論者M氏が神秘主義に陥ったのはムーだそうである。私も学生時代ムーを購入したことがあるが、高かったので定期購読はしなかった。霊性とはそういうところに宿るのかもしれぬ。金持ちと貧乏とどちらが自然に近いかといえば、貧乏。そういう悲しい現実がある…。(^^;)


蛇足として、具体的にいえば、なんらかの禅的な修業システムを青少年の育成のひとつのフェイズとして採用すべきである。




そもそも近代は、証明も反証もできぬものを取り扱わないと決めるところから始まった。17世紀以降、科学者たちがガリレオ・ガリレイの挫折を目撃したことがきっかけではないか。
だが、現代は、証明・反証不可能な世界を取り扱わないなどということを許さなくなっている。

では、どうする?
反論者たちに有無を言わせないひとつの答えが甲野善紀である。
スピリチュアルカウンセラーの江原氏をペテン師だということはたやすいが、甲野氏をペテン師だと言うことはなかなか難しい。もちろん、それは甲野氏が即物的であるという意味ではまったくない。



追記:
勿論、真理谷円四郎が生きた時代のように、甲野善紀に勝たなければ、彼を批判することはできぬ。などというつもりはない。ただ、彼に勝てぬ自分が何かを言うことが、空虚ではないか。そのように思ってしまうのだ。

勝ち負けを先に考えてしまえば、こんなに簡単なことはない。

私が2ちゃんねるに擁護的な論陣を張っているのも、まさにそういうこと。負けに学び、勝ちを越える。


なんだなぁ…。






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Last updated  2006年11月05日 21時52分00秒
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