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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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2006年10月31日
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いじめの問題と自殺の問題が、過度に関連づけて論じられている。


コミュニケーションと、死と対峙することは、まったく次元のことなることであって、それを混同して自死を選んだとしたら、軽率な振る舞いだと思う。


勿論、コミュニケーションに問題があったに違いない。それが自殺者を出すような深刻な事態だったことは批判されるべきである。だが、自殺といじめは関係がないという学校関係者の弁明も間違いではない。だが、間違いではないからといって許されるかといえば、そうではないから、ことは複雑なのだ。



罰則がなければルールは機能しない。そんなことは誰でもわかる。いじめの対応に対して開き直っている感も否めない教育関係者も、無理からぬことと私は思っている。


「広い意味でのいじめはあったのかもしれないが、死に至らせしめるほどのいじめはなかったと考えている」

いじめと自殺が関係がないと、岐阜県の瑞浪中学校佐々木喜三夫校長は会見している。
彼がいじめを見逃した責任は免れないとした上で、それでも、いじめと自殺の明確な作用起序列(因果関係)は認められない。

そして、アクティビズムによって考えるならば、頭を下げるだけで事態を収拾しようとする教育関係者と比べたとき、どちらが現実に起きていることに忠実であるかといえば、人として生きているかと考えれば、いじめと自殺は関係がないと白状した校長のほうである。

いままでのマスコミの文脈でどちらがより批判を浴びるかといえば、マスコミに反論した場合であることは分かっているだろうし、すでにマスコミ対策マニュアルも校長会などではできているだろうから…。

皮肉な言い方であり、批判を恐れずに言うならば、18病院妊婦受け入れ拒否の事件で、奈良県で病院や行政がマスコミに屈した発言をしていることを比べれば、極めて誠実であると思えてならない。頭を下げて、一切を自分のせいにしてしまうなら、事実を隠蔽してしまい、有効な解決策を模索することはできない。




テレビカメラのインタビューで、「いじめはありました」と、中学生が応えている。バスケット部の顧問の教員が、「言葉の暴力はあったが…」と、いじめを否定する。「報道しないで」と、校長は涙ながらに訴える。
死者に対する弔意が語られずに、保身ばかりの発言が嫌になる。勿論、弔意のコメントはマスコミが放送しないだけだろうが…。

世の中に悪意は一定量存在するのだから、いじめを働いた悪意の人たちを責めるのは無意味である。問題は、それに対峙しなかった善なるものたちの意気地のなさである。


「いじめはありました」と語る同級生たちは、事実上、いじめの見張り番をしていたことを認めていることになる。

そのような者たちを責めぬマスコミ者というのも、呑気ものでしかない。否、彼らを責めるでなく、教育関係者を糾弾するならば、それは社会悪である。アクティビズムの対極にある。

校長の「報道しないで欲しい」という発言の裏には、保身もある。だが、報道が教育現場を荒廃させる一員となっているという真実の嘆きであることも事実なのだ。



かとって、運営する学校関係者たちに責任がないというのではない。
人間関係は環境から影響を受けるのだから、いじめが起きないようなコミュニケーションシステムを構築しなかった責任は大きい。

いじめの根本的な原因は、コミュニティーがフラット、オープン性・外部性(ウェブ2.0の3要素)を持たぬことにある。

フラットであれば、先輩から後輩への暴力はない。
オープン性があれば、外部からの監視が働く。
外部性があれば、コミュニティーの外部も内部も等価となり、風通しのよい組織になる。


そして、バスケット部にある程度そのようなものが達成されていたにも関わらず、いじめが起きてしまったとするならば、それは、バスケット部というクラブ活動の問題ではなく、中学校そのものが、フラット、オープン性、外部性を保持していないからである。(フラットは人間関係としてのフラット性であって、師弟関係は一定の規律が求められるのは否定しない。平等と分相応を混同しないこと。)

そして、中学校がフラット、オープン性、外部性を獲得しても尚、いじめがなくならないならば、社会そのものが、フラット、オーブン性、外部性を成立させていないから、いじめがなくならないのである。

フラット、オープン性、外部性を一言でいえば、アナーキズム。アナーキズムによって始めて、集団の自浄作用は働くのである。


そして、そのアナーキズムをめざしているのが、2ちゃんねるである。ゲームの途中を取り上げて、2ちゃんねるを批判するマスコミ者が多いが、ほとんどの論争の結果がリンチに終わっていないことを確かめて欲しい。

問題は、ゲームのスピードをあげること。そして、その存在を多くの人たちに知ってもらい外部性、オープン性を上げることだ。
そもそも、マスコミが2ちゃんねるを紹介することが、現在のふたつのメディアの優劣を示している。…だが、そういう時代も過渡的な現象になるだろう。



テレビの低俗番組が青少年の非行・不行状の原因になっているかといえば、そこになんらの相関関係はないという結論がすでに専門家たちの研究では出ている。だが、そういうものを無視し、感情的に論じることがもっぱらである。




【いじめ減少への具体案】

いじめの問題の解決法はひとつしかない。それは、教育にキャフェテリア方式(バウチャー制度)を導入すればいいのだ。いまの教育は配給制度になっているから、自浄作用は働かない。それだけのことだ。ソ連で起きたことと同じ病理が日本の教育界に巣食っているだけのことだ。
コミュニティーの自浄制度とは自由主義の見えざる手でもある。そのようなもが働かぬとどうなるか…。ことは簡単だ。

現実主義が理想主義に負ける。


空虚な理想主義が現実に対応するために何がなされるかといえば、旧ソ連の瓦解の過程に現れた腐敗や、北朝鮮の現状をみれば理解できるだろう。
もちろん、自由主義の見えざる手にも瑕はさまざまにある。その成立過程において、それは顕著に現れるだろう。だが、長期的に見ても短期的に見ても、自由主義に委ねたほうがましであることは確かだろう。



具体的にいえば、禅的な修養法を道徳教育に取り入れることである。せめて、警策による喝は教育の現場にあっていい。戦前には教練の先生がいたが、禅者の先生が学校にひとりいることもあっていいと思うのである。そして、そのようにして組まれた学校はイギリスのプライベートスクールの有様とかなり似てくるのではないかと思っている。

そういう学校のスタイルは信教の自由の妄追と体罰をタブーとする世論の中で成立することはない。だから、バウチャー制度の中で成立させるしかないのである。
勿論、こどもに一度も体罰をしない人文的な理想を持った教育があっていい。だが、そのようなものが成立するのは、かなり限られた条件にのみ成立することが明らかになるはずだ。



空虚な人文主義から、身体的実感をともたった人文主義へ世の中が動かなければならぬ。
そのためには、まず大学受験制度を変えなければならぬ。

前者は、甲野氏の誕生などで萌芽しつつある。
後者は、推薦入試制度の導入で萌芽しつつある。

甲野氏が世の中に受け入れられている意味、推薦入試制度が広がっている意味。それらに世の中が気づいたとき、パラダイムがシフトしていくのだと確信する。

難しいことを言ってきたが、簡単にいえば、江戸時代の寺子屋に学べ。そういうことだ。

寺子屋の特長
・実学(職業適正を見つけること。将来の人生に役立つ勉強をした。)
…その典型が手本として三行半(離縁状)を使ったこと。江戸時代も離婚は日常だったのである。
・講義形式はとらない
…それぞれの能力にあった学習法。この方式なら、おちこぼれなどは存在しない。学習能力が高い子どもは上級学校に行けばいいし、そうでない子どもは職業教育を受ければいい。最近の学習塾の流行が個別指導なのは、講義形式の弱点に多くの人たちが気づきはじめた影響だろう。
・適度の体罰
…水の入った茶碗を持って立つという体罰があったそうな



余談:
巨匠・黒澤明は、犯罪の理由をその日が暑かったから。として、観衆の納得と喝采を浴びた。
いじめられたから自殺する。「死ね」といわれたから自殺する。
人間とは、かくも弱いものであるが、そんな単純なものではもない。
マスコミは陳腐なストーリーをつくって事態の収拾を目指してはならぬと、切に思う。





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Last updated  2006年10月31日 08時37分19秒
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