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カテゴリ:「ジャーナリズム関連(既存・市民)」
【前書き】
湯川さんのブログでポッドキャスティングを聞いていたら、ある女性PR会社経営者が、メディアとエージェントに対して、「ステークホルダー」なる語を代名詞として使っていた。 すべての情報発信者はステークホルダーであり、私もその範疇から逃れられている訳ではない。 【本文】 産経新聞(06.11.18)の正論に、梅田望夫氏が書いている。タイトルは、「IT革命」から「I革命」の時代ということことだ。 論旨を私なりに要約すると、
私はこの論理が、エバンジェリストの軽薄な論理であることを指摘しなければならない。 このような言論を「正論」と称して、発信する産経新聞のステークホルダーを思う。 私には、産経新聞と梅田氏のステークホルダーが一致したから、このような言論を「正論」として掲載したのだと思う。 そして、そのようなものたちと私との距離を絶望を感じている。 産経新聞の読者数と、私のブログの読者数は比べるもない。だが、とても簡単なことだから、私がトリガーを与えることで、多くの人たちがすぐに理解できると思う。 勿論、私の読者の中で、エバンジェリックなステークホルダーがいるとすれば、反論したくなるし、理解などできるはずはない。 ☆
これは、明らかな間違いである。 私は、インターネット上で「幻想の市民参加型ジャーナリズム」の全原稿を掲載しているが、作者としての自分は満足していない。そして、読者としての自分もネットで満足していない。出来れば本を買って読みたいと思っている。地味なサイトだが、アクセス数はすでに8000を越え、最近でも数十件を数える日がある。 たしかに出版されないことは、商品価値がないともいえるが、それは、千円近い対価を払う人が数千人いないということでしかない。私が書くような文章でも、値段が100円なら、読みたい人は百人ぐらいいるに違いない。 ま、負け惜しみの自己満足はそれくらいにして、指摘したいのは、インターネットで情報が開示されても、本が役割を終えることにはならぬということだ。 ☆ 梅田氏は、アメリカの有名大学で講義がインターネットで無償公開が開始されることで、インターネットの価値が高まるとしている。だが、本当にそうだろうか…。私には、それが梅田氏が自らのステークホルダーに準じた発言としか思えない。 カリフォルニア大学バークレー校が講義のインターネット無償公開に踏み切った理由は、インターネットでの公開が大学に悪影響を及ぼさないと判断したからである。 その構図を喩えるならば次のよう。 顧客の1%が対価を支払うならば、99人に無料で配布してもデメリットはない。ここでの問題は、対価を支払った顧客が同様なサービスが無料配布されていることに不満をあらわすかという問題だ。 実際の授業とインターネット授業に品質さがあるのは当然だ。 実際の授業では先生に質問ができるし、講師やクラスメートとのコミュニケーションも可能。 そういうプレミアム感を、インターネット無料配信は増幅させるのであって、プレミアム感を汚すことなどありえない。 勿論、本物のプレミアム感はそのようなものではない。それは、本物のお金持ちやエスタブリッシュが、お金持ちのお宅拝見番組の取材を許さないのと同じことだ。カリフォルニア大学バークレー校。コロンビア大学ではない。そういう意味では、とっても分かりやすい。 インターネットで配信される授業はあくまでも、講師の文献の映像化に過ぎない。勿論、インターネット授業を行い、インターネット試験をして、単位を取得できる制度を整えたとしても、リアルな講義とリアルなコミュニケーションとの差がどれほど埋められるのかといえば、わずかなものだろう。仮に授業料が10万円だとしても、その対価を支払う価値はあり続けるのである。 インターネット無償公開に耐えうる授業というのは、品質としても高いから、評判を生み、さらに顧客を増やすのだ。つまり、いままで、100人の人しか存在を知らなかった講義が1万人の人たちに知られる。ならば、その1%は100人になる。そういう可能性が期待できる。 プロ野球がはじまったとき、野球中継はスタジアム来場者を減らすのではないかという危惧があった。だが、テレビ視聴率とスタジアムの観客数は同じパイを奪い合う関係になく、相乗効果で伸び合うのである。 メディアが異なれば、相互補完はありえない。 そのことを捨象した梅田氏の解釈はエバンジェリックなものでしかない。
これも大間違いである。 技術革新がすすんだ「情報の時代」がどうなっているかといえば、情報の受け手たちにリテラシーを求める現状が解消されていくことである。 現状では、事実と異なる情報、不誠実な意図のもとに発信された情報、商業的な意図を持って発信された情報、布教を目的に発信された情報、自己都合によって発信された情報を知る術はない。 …それらの危うさを伺い知るために、2ちゃんねるが存在する。 だが、今後、情報技術が進歩するならば、情報発信者以外が情報そのものにメタタグをつけるようなムーブメントがすすめられていくに違いない。 たとえば、グーグルツールバーのPageRankはその先駆けだし、ソーシャルブックマークもコンテンツにもっと近くなっていくならば、情報発信者以外がつけるメタタグという概念もすすんでいくに違いない。勿論、その過程において、情報発信者の意図しないメタタグを排除しようとする商売も起きる。だが、そのような現象は過渡的なものであり、最終的には、そういう勢力はSNS的な世界に閉じこもるに違いない。 ☆ たかだか15年ほど前のこと。ワードが扱えなければビジネスマン失格だった。そして今、ワード・エクセル・パワーポイントが使えるからといって職場で胸を張っていられるだろうか。 梅田氏が、「情報の新しい姿を予測し、教育論議を」と主張しているが、情報の新しい時代とは、情報の価値がデフレを起こす時代であると、私は確信している。 20年前は、エクセルを使いパワーポイントでプレゼンを行うだけで、尊敬された。20年後の今は、パワーポイントのプレゼンテーションなど当たり前。プレゼンの内容が空虚ではパワーポイントを駆使しても意味はないのだ。 そのことを思えば、こどもたちのために何を授ければいいのか、分かるはずだ。
☆ 考えてみれば、ウインドウズ95から始まったパソコンブーム。つづく、インターネットブームは、情報インフレの時代だった。ならば、次にやってくるのは、情報デフレの時代だ。 そして、情報技術の革新によって、一般人に求められる情報リテラシー負荷は軽減する。 それを考えれば、梅田氏の提案する「情報の新しい姿を予測し、教育論議を」という見出しは、 「情報関連産業は今後地盤沈下をもたらすので、そのようなものに左右されない価値観を創出すべきだ」もしくは、「情報の技術革新によって、情報リテラシー負荷が軽減されるので、目先の情報産業のムーブメントに左右されない自己を創出すべき」ということになる。 実際、アプリケーションは日々バージョンアップされてしまうのだから、将来のことを考えて習得するなどということは馬鹿げている。 もし、意味があるとしてたら、オランダ語を習得していた福澤諭吉は、オランダ語を出世に活かすことはできなかったが、英語を習得するときに役に立った。その程度のことである。 ☆ 「正論」の見出しは、「IT革命からI革命の時代へ」という抽象的なものだし、小見出しも、「情報の新しい姿を予測し、教育論議を」と、情報の新しい姿を明確にせず、教育論議も方向性を示していない。 私には、産経新聞がそういう見出しを選択した理由は、私がここで主張したことをすでに気がついているからだと思えている。 私は、そういうメディア者たちの愚民感と差別意識を嫌悪するし、そういう梅田氏を「正論」という額縁を与えることが、日本社会の今後にとって、必ずしもよいことと思えぬと思っている。 勿論、「正しい」という語が、主観的なものであると、瓦解して久しい…。だから、許されるのかもしれぬ。 ☆ 私が明確に、反旗を翻すならば、
と、なる。 個の充実とは何か。 それは、 いまを生きろ。いまの自分を生きろ。 である。 と、「女王の教室」のセリフを引用するスポンタである。 蛇足: 私は梅田氏の言説の重箱の隅をつついたのではなく、全否定をした。 しかし、梅田氏と私の間にコミュニケーションのツールはなく、立場を異にする意見が対照されるメディアもない。 それが、2006年のインターネットである。 それを解消していくのが、梅田氏のクライアントたちの仕事であるのは皮肉なめぐり合わせである。 前者は、オーソライズ機構。後者は、インテグレートメディアの構築によって解消される。 梅田氏のような言論がはびこる限り、ステークホルダーによってそのようなシステムは構築されず、IT革命の時代はまだまだ続くのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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2006年11月22日 09時30分49秒
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