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カテゴリ:「テレビウォッチ」
テレビ朝日「オーラの泉」を見ている。
エスタブリッシュなメディアで、堂々とスピリチュアリズムが語られる稀有な番組であるが、その雲行きが怪しい。 暗雲のもとは、美輪明宏氏である。 もちろん、能力のある彼のことである。私がここに書こうものなら、彼の直感はすぐに悟るだろう。だが、そのようなものがもたらす私の弊害を持ってしても、世の中に誤解が広がっていくならば、私は言説をやめない。 ☆ 年末・正月の番組で、美輪氏は、昨今の若者たちの言葉の乱れを叱っていた。それは、まるで自分が若者だった頃の方がすこしはましだったとでも言うように…。だが、言葉の乱れは、希薄な人間関係が横溢する現実をなんとかしようとする無名者たちの悲鳴であって、悲鳴をあげるなと叱咤することは非情である。 それは、江原氏が、若者たちの引きこもりや逆切れという現象を見て、彼らが愛情に飢えている悲しい人たちであると、心を寄せるのとは対称的である。 ☆
美輪氏は別の番組で、最近の歌謡曲は間違っているといい、本物の芸術とはこういうものだということで、「愛の賛歌」を披露した。 日本語の語りがあり、フランス語の歌に入っていく。番組関係者は美輪氏から一切ノーカットで放送するように強制されたという。そして、その映像を見て、テレビの視聴者も本物の芸術を感じて欲しいと言う。 私は真剣に、オンエアの画面を見つめた。素直な自分と対峙するよう努力した。 その結果、私の感性の上に浮かび上がってきたものは芸術とはかけ離れた最悪のものだった。 歌は、「愛の賛歌」なのに、それから伝わってくるものは、恨み節である。たしかにエディット・ピアフの原曲にも、たしかに愛ではあるが、その底には、愛しても満たされぬ、女の悲しさ・怨念があるのは事実だろう。だから、美輪氏の歌から伝わってくるものを批判には及ばぬのかもしれぬ。 だが、そうではない。 美輪氏は芸術をなめている。テレビの観客をなめている。 テレビでのパフォーマンスの伴奏はカラオケによってなされた。それが致命的であった。 表現する言葉があり、表現したい気持ちがある。それが自由な時間を得て、欲しいままに作品となるのが芸術である。 だが、カラオケの中の時間は止まっており、美輪氏のパフフォーマンスは、まるで死体と情交を結んでいるかのようであった。 ☆ 昨日は、劇団ひとりがゲストとして登場していた。 美輪氏は言う。感情ではなく、知性で生きよ。と。 だが、彼の恩人、三島由紀夫は感情から自決を選んだのだろうか。もし三島の自決が感情の発露であったとしたなら、三島の栄光の大部分は失われてしまう。
やるべきことは、知性と感情を越えることであって、知性で感情を抑えることではない。 ☆ 番組では、大我・小我についても話題になる。 小我とは自分の利益を追求することであり、大我とは相手の利益を追求することである。 江原氏も美輪氏も、小我を捨て大我に生きよ。と説く。 だが、自分を捨てることが褒められるわけもなく、相手が必ずしも正しいわけではもない。 あるべきは、大我・小我を越えることである。
番組後半では、「愛情ではなく感謝」と言及しているが、それは、大我・小我を越えろということである。 ☆ 國分太一氏は、「偶然ではなく必然です」を連発する。 江原氏は、それが巷間、「負けたものに言い訳を与えること」と憂慮する。 武術家・甲野善紀氏は、「たしかに運命は存在するが、人は運命から完全に自由である」と言う。 この言葉たちが何に関連して述べられているのかといえば、因果応報・カルマということになる。 では、カルマが存在するが、カルマから自由であるとはどういうことか。
つまり、人生の選択肢は無限にあるのではなく、無限の中から有限の選択肢がすでに選抜されている。それが、甲野氏の言う「一生は運命によってあらかじめ決められているが、同時に、人は運命から完全に自由である」ことだと思う。 ☆ 美輪氏は、自分が島原の乱の天草四郎の生まれ変わりだと自らを語る。そして、青春時代を、性的異端者として「化け物」と迫害されて生きてきた。 そのような彼のカルマが、人生のフィナーレに近づいた彼をして、どう動かしているのか。 私は彼を批判するには忍びないが、スピリチュアリズムに疎い諸賢が誤解するのなら、指摘すべきだろう。
文化勲章を貰って喜んでいる瀬戸内寂聴氏を見ると、無性に腹が立つ。 私は、そのような卑劣漢にはなりたくない。 どんなに誤解を受けても…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年01月18日 19時55分32秒
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