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2007年01月31日
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カテゴリ:冬のソナタ
「冬のソナタ」の素晴らしさについて語っている。
それは、そのままソクホ監督の素晴らしさについて語ることになっている。

だか、どうも、そのような単純なことではないようだ。



たとえば、冬ソナの並木道は、バージンロードのメタファー(暗喩)であり、手をつなぐことは、聖約を終えた新郎新婦がバージンロードを引き上げていくことをシンボライズ(象徴)している。と、私は指摘した。

だが、妻からの補足情報を聞く限り、そのようなことをソクホ監督が意図して演出したかどうかは分からぬ。という。

冬ソナの並木道から、バージンロードを読み取った私は、妄想族なのだろうか…。


並木道.gif


その事実を持ってして、私が提出する事々に価値がないと感じる人もいるだろうが、そうではない。

作品は、観客の感性の中で完結する。といえばご理解いただけるだろうか。




先述の指揮者・大野和士氏のオペラ「トリスタンとイゾルテ」のアナリーゼでいえば、指揮者は歌詞のBitteというセリフの解釈について、次のように語った。

ビッテの意味は、「どうぞ」ということなのだが、そこにはビター。苦いという意味も含まれる。どうぞ。という言葉に、人生の苦々しさとでもいうものを加えて欲しい…。

ベルギーのオペラハウスで、ドイツの譜面に接し、アメリカ人歌手に向かって、どうどうと欧米語を語る大野氏。東京生まれで、芸大を卒業した彼のマザーランゲージは日本語である。

ドイツ語のBitteの語源の中に、苦々しさという意味があったのかどうなのか、私は調べる術を持たないが、譜面から、大野氏がそのようなものを受け取ったのならば、それでいい。
それがアナリーゼの世界であり、そのような解釈をする自由が、有効なアナリーゼをするためには重要なことだと私には思えている。

そうでなければ、何もわざわざ、ベルギーの観客たちが、ワグナーというドイツ人作家のオペラを東洋人の指揮で鑑賞する意味はない。

同様に、「冬のソナタ」も、日本人観客たちの心の中で、新たなるストーリーを紡ぎ上げる。
そこにこそ価値がある。




家に着くまでが遠足である。と、解散前の集合で引率の先生は注意を促す。
みんなで集まって、どこかへ行く。でも、どこかで必ず解散しなければならないし、途中まで帰り道が一緒だったとしても、兄弟でない限り、同じ家に帰ることはない。

「冬のソナタ」も同じである。作品を観ることは、遠くの街を訪れるようなものだ。ドラマのストーリーという遠くの町で、観客たちは共通体験をする。

だが、同じ場所に行っても、同じ体験をしているとは限らないし、そぞろ歩きをした仲間同士でさえ、それはおぼつかぬことだろう。

そして、最後には、ひとり作品と向かい合うことになる。そこにこそ、「冬のソナタ」の価値があるし、ファンクラブのイベントでの群集の中の熱狂とはもうひとつ別の世界で、静かに、そして、確実な「冬のソナタ」の世界ができあがっている。

それが「冬のソナタ」の大きな特徴である。



「冬のソナタ」のパチンコをしながら、泣く人がいるという。

私には、そのシチュエーションがよく分かる。
パチンコ台に向かいながら、同じことを繰り返している。そこで見えてくるものは、自分の心であり、自分自身である。そのようなものと対峙したとき、「冬のソナタ」があれば、自分のあの日、あのときがよみがえってくるのである。

きっと、パチンコで涙している人たちは、ユジンに、そして、チュンサンに涙したというだろう…。
だが、涙の本当のわけはそんなものではない。

「冬ソナ」を隠れ蓑にすれば、涙することが許される。こんな素晴らしいことはない。


07sponta






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Last updated  2007年01月31日 10時01分51秒
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