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2007年02月03日
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カテゴリ:冬のソナタ
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観客が絶対に読み取らなければならぬことは、「冬のソナタ」のストーリーがどんでん返しを繰り返すことで、観客の涙を誘おうとしてはいないことだ。
日常には不安がつきものであって、その不安が時を変え、品を変えて登場しているだけで、ジェットコースターよろしく、幸福の頂点から地獄に真ッ逆さま。または、地獄の底から天にも昇る気持ちになるというのではない。

幸福は、不幸を連れてやってくるし、不幸も遠い将来の幸福を否定するのでもない。それが「冬のソナタ」の特徴的なリアリズムである。



だが、悲しいかな、日本でのオンエアでは、そうしたドラマ構成をなかなか読み取ることはできない。
その理由は、この作品が韓国では、70分枠でCMによる中断なしで放映されたのだが、日本では、40数分に再編集されてオンエアされたからだ。つまり、4割近くがカットされている。

半分近くにカットする場合、編集者が一番に考えることは、話のつじつまを合わせることである。だが、話のつじつまを合わせることが、作品にとって最も重要なことであるとは、必ずしもない。

もし、「冬のソナタ」を、主人公たちの感情に心を寄せるのではなく、サスペンスや犯人探しのドラマよろしく筋書きばかり追ってみている観客がいたとしても、それはそれで仕方の無いことだが、彼らは、恋愛ドラマなど観ずに、シャーロックホームズなどを見ていればいい…。



ソクホ監督は、結果を先に編集してしまって、後からその原因のシーンをつなぐという手法を使っている。

うろ憶えなので、確かではないが、チュンサンが母親から衝撃の事実を聞かされた場面は、最初に、その衝撃に打ちひしがれるチュンサンのシーンがあって、そのあとに母親がチュンサンに告白するシーンがつながれていたような気がする。

言うまでもないが、「冬のソナタ」は叙事詩ではない。抒情詩である。ならば、情念のままに編集がなされるのは当然のことである。



作品に新たなるものを加えることがタブーである短縮版の制作者たちは、再構成においての自由度は低い。
彼らが行うことができるのは、削除のみであって、構成を変えることは許されないのだ。

編集方針の第一は、ストーリーの辻褄を合わせることであって、悲しいかな、作品にとって一番大切である、チュンサンとユジンの心のうねり・動きを穢さぬことではない。

仄聞するに、ソクホ監督が日本版の編集作業も行ったということだが、作品を40%も減量しなければならないのなら、作品はずたずたになってしまって当たり前である。



妙なたとえ話だが、あるコントを紹介する。

コントの設定は、警察の一室だろうか。

万引きをした高校生が警察官に説教されているが、そこに高校生の父親が現れて、父親は高校生と一緒に、真剣に、そして涙ながらに、反省の弁を口にし、もう絶対このようなことはさせません。やりませんと頭をさげる。
すると、警察官は、これからは同じことは絶対に繰り返してはいけないと高説する。
その弁に応じて、父親と高校生はさらに頭を下げ、「もう絶対にやりません」「もうしわけありませんでした」と反省を口にする。
その改悛の情に引かれて、「今回は特別に大げさなことにはしないが、こんなことは絶対繰り返してはいけない。じゃ、帰っていい」と二人を送り出す。

すると、間髪をいれず、父親は、「よし、じゃ、気分転換に飯でも食いに行くかッ」と、いままでの反省がまるでなかったかのように、息子に語りかける。息子も「じゃ、僕はカツどんがいいな」なんてことを口にする。

その豹変ぶりをみて、警察官は「おい、待て、待て…」となる。



「冬のソナタ」の日本オンエア版も似たようなものだ。
別れ話をしたすぐあとに、再会をしていたり、たいした逡巡もせぬままに心を変える…。
日本オンエア版のユジンは、優柔不断ではた迷惑な女性だ。

だが、韓国語ノーカット版では、自分の心に極めて忠実な尊敬できる女性である。



日本シナリオ界の重鎮に新藤兼人氏がいる。
彼のシナリオ修行は本にもなっているし、「愛妻物語」という映画にもなっているので、極めて有名である。
彼の最大の蹉跌は、師匠である溝口健二監督から、「あなたのはシナリオではありません。ストーリーです」と言われたことである。

新藤氏は、私が通っていた映画学校のシナリオ賞の講評で、毎年必ず、「読後の感想は爽やかだった。作者の感情が作品から素直に伝わってきた…」と書いていた。毎年作品が変わっているのに、同じ講評を出すとは…。
だが、彼は映画界で評価され、映画監督として作品を発表しつづけている。

私のシナリオはまったくの評価外。その理由を探ることが、シナリオを上達させることにも繋がるから、それ以来、溝口健二が言ったという「シナリオとストーリーの違い」について、ずっと考えてきた。

そして、その結論は、「雨月物語」で知られる世界の巨匠・溝口健二と同じ結論になる。

映画とは、そして、ドラマとは、「ストーリーで成立するものではなく、シナリオにより成立するものである」。



徹子の部屋に出演した香川京子氏は、溝口監督が、反射(相手の演技を自分の演技に反射させて、演じること。)という言葉を頻繁に使ったと指摘した。

それを受けて、黒柳氏は、進藤栄太郎氏が田中絹代氏と濡れ場を演じたシーンにおいて、溝口監督が田中氏を陰にひきよせながら、彼女が本当に感じているかどうかについて、問いただしていたという。

ストーリーは骨組みに過ぎないし、作品にとって一番重要な要素ではないのだ。






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Last updated  2007年02月04日 01時55分44秒
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