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カテゴリ:「テレビウォッチ」
![]() 山本モナ氏がバッシングされたのは、メディアでの出来事である。彼女は先週、テレビ朝日「格付けする女たち」に出演して、あっけらかんとした表情を見せていた。 それは、同じく不祥事を起こしたが、宮崎県知事として復活をとげた東国原英夫氏とは対照的である。 テレビ局もメディアであり、宮崎県政もメディアである。 山本モナ氏は、TBSの番組を放逐され、お笑いウルトラクイズにスイカの被り物をして登場した。彼女には、タラコー・タラコーのようなフィット感はなかったが、それはそれでよかったのだろう。 昨日も、日本テレビ「シャルウィーダンス」のお笑い芸人大会に出場し、お笑い芸人大会に出場することに違和感はないと、語っていた。芸能ジャーナリズムはそれを、ふっきれたなどと解釈するのかもしれぬが、そうではない。 オフィス北野のブッキングでは、お笑い番組というチャネルしかなかったのだ。 彼女がもし、オフィス・トゥー・ワンか何かの所属だったら、状況は違っていただろう。 彼女は、「気にしてません」とか、「吹っ切れました」というよりも、「オフィス北野の所属なんで…」と、楽屋話をすべきではないかと感じている。
それは、政治とバラエティー。 報道人と芸人の違いなのだろうか。 そうではなく、それは、山本氏がステークホルダーを失い自由になったのに、対して、東国原氏がステークホルダーを抱えてしまったことを意味する。 芸人の本質とは、一休禅師の心持と同じ。人間本来無一物である。 大物芸能人が「お足」などといって、ギャラをそのまま夜の世界で使い果たすことにも意味がある。 そのように放尽・放蕩はある意味、出家であり、放生会でもある。 すでに、山本氏は、たけし軍団から無一物ならぬ、一物を見せられるという洗礼を受けたという。彼女もそのような経験によって、清められていくのだろう。 ☆ さて、私が、インターネットが、ステークホルダーな言論空間でしかないことについて憂慮していることは、このブログの読者ならば、すでにご存知のことだろう。 継続的に自説を主張する個のほとんどは、商業主義の奴隷だったり、自説の捕囚だったりする。 なぜ、そのようなことが起きるのか。 その理由を、「格付けしあう女たち」を観ながら、はたと気づいた。
このところの私が、何故「冬のソナタ」に執着しているか、理解しかねる読者もいるだろう。また、冬ソナなんて関係ないと、私のエントリーを読んでない方もいるだろう。 それはそれでかまわないのだが、私がそのような連作をしつづける理由は、恋愛というものがステークホルダーを越える要素を持っていると気づき始めたからである。 ☆ 番組中、西川史子・女医は言う。 「私が相手にするエリートっていうのは、勉強ができるだけじゃないの。頭もよくて、顔もいい。スポーツも万能で、家柄もよく、そして、やさしい。そういう人たちよ…」 すると、バブル青田こと青田典子氏が言う。 「何でも持っている人は、最終的には自分を選ぶものよ」。 観ていた私は、そのリアリズムに納得した。すると、サイババのような髪型をした鈴木沙里奈が言う。 「エリートよりもストリート」。 彼女は、どうしようもない男に、はまる感覚が好きだという。男と堕ちて行く…。それが恋愛の醍醐味だという。彼女は、彼のお金でフランス料理をご馳走してもらうよりも、自分のお金でオリジン弁当を買って、彼のアパートに押しかけ、一緒に食べることを選ぶ。 彼女の価値観を持ってすれば、西川女医の恋愛観はご都合主義でしかない。 すると、森下千里氏は、「私は、13マタをかけられたけど、私はそのとき幸せだったの」と泣き出した。 彼女は、彼氏の会社の前や自宅の近くで待ち伏せをするようなストーカーな女性である。 彼女の涙に、鈴木沙里奈氏も思いを強くする。 結婚に蹉跌している国生さゆり氏も、恋愛については果敢に戦った歴戦の雄である。
☆ ![]() 山本モナ氏は、路チューが原因で、TBSの報道番組を降板させされている。 曰く、「私って、我慢できないたちなんです」。 そして、不思議なことに、友達と好きになる人が同じになることが多い…。とも。 彼女の表情は極めて明るい。それは、何かを捨てることで吹っ切れた表情ではなく、ベストをつくしたものだけが到達できるものではないかと、私は感じていた。 ☆ 私は、彼女が引き起こした一連の騒動の原因に、彼女の純情を見る。
西川女医以外の、スタジオに集まった女性タレントたちは、一応に、モナ氏の人生にエールを送っていたと思う。彼女たちは、西川女医が処女ではないかと冷やかした。 まぁ、そんなことはどうでもいいのだが、彼女が自分を捨てることが出来なければ、本当の恋などできぬ。 彼女がテレビ番組用に高慢ちきなキャラクターを演じているのならいいが、もし、彼女のキャラクターが営業用のものでないとしたら、可愛そうなことだ。 ☆ 俳人・寺山修司は、 「我が身を捨つるほどの祖国はありや…」と詠っている。 寺山に指摘されるまでもなく、戦後の日本は、男にとって、とても生きにくい世の中になっているが、女性たちにとっては、素晴らしい世の中である。 批判を恐れずにいえば、女性にとってのキャリアというものも、捨てるために存在するのだ。 そして、それは何度も、捨てることができる。 一人の男性として、それが極めてずるいことだと思えてならぬ。 ☆ 私と少なからぬご縁を持っている宮城まり子氏は、「私は女にとって一番大切な愛情を奪ってしまったから、戸籍と彼の収入を貪ることはしなかったの」と、吉行淳之介氏との長きに分かる内縁関係について語っている。(週刊文春・新家の履歴書07.01.25) 山本モナ氏は、持てるものを全て捨てたのだし、それが女としての株を上げた。 うつむくでなく、ふてくされるでない彼女の輝きを私は感じている。 それは、メディアの文脈とは異なるものであるかもしれぬが、そう思っている人は多いはず。 問題は、無一物になった彼女が何をするか。または、何もしないかである…。 私は、ステークホルダーを逃れた彼女の活躍に期待している。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年02月04日 18時16分11秒
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