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2007年02月08日
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カテゴリ:冬のソナタ

BYJ氏の演技について、また、「冬のソナタ」について、さまざまに論じられているようだが、演技についての基本的な理解がされていないと感じている。

まず、衛星放送でオンエアされていた、アクターズ・スチューディオ・インタビューにおける、メリル・ストリープ氏の発言を提示する。

舞台では、セリフが重要ですが、映画では、そのシーンに立っただけで、表現することの8割がたは表現できている。だから、そこでセリフで何かを表現しようと思うことはよくない。


同様なことは、新人女優・石田ゆり子氏に映画界の重鎮・緒方拳氏が語った次の言葉とも重なる。

何かをしようと思うな。




私が尊敬するフランスの映画監督ロベール・ブレッソンは、

演技とは巧妙な嘘である。私は、巧妙な嘘よりも、下手な真実を選ぶ。

と、シネマトグラフ覚書で書いている。



フランスの名優シャルル・シャルルアズナブールは、有名俳優だったために、ブレッソン監督に演出してもらいたかったのだが、その望みは叶うことはなかった。

黒澤明監督は、ロベール・ブレッソンの影響で、素人俳優をつかって「影武者」をつくろうとした。
松田聖子の映画「野菊の墓」澤井信一郎監督は、俳優に演技を求めず、あえて棒読みをさせる。
棒読みにすることによって、伝わることがあるのだ。

私は、小学生の娘とモーニング娘の映画「仔犬ダンの物語」 (2002) を見に行ったが、モーニング娘や、ハロープロジェクトの幼き女優たちの棒読みは学芸会を越えて、まるで、小学校の卒業式のシュプレヒコールのようだ。
だが、そのような表現で伝わるものがある…。



かつて、小津安二郎監督は、ゆっくりと見上げる芝居ができぬ笠知衆氏に次のように述べたという。「畳の上を蟻が向こう側に歩いていく。それを眼で追ってください」。このエピソードを映画学校の講師であった蛮さんこと井上和夫監督は、不器用な俳優への侮辱という文脈で論じていたようだが、必ずしもそうではない。

今村昌平監督は、映画「黒い雨」の主人公・田中好子の髪の毛が抜けるシーンにおいて、「急いでプラットフォームに駆け上がってきたものの、目の前で電車の扉がしまってしまい、バツが悪い。そんな表情をしてください」と演技指導をしたという。田中好子は、カンヌ受賞監督とは、妙なことを言うものだとの印象を持ったという。

今村監督のパルムドール受賞作「楢山節考」の撮影初日は、自分の母を捨ててきた息子が、翌日に澄み切った青空を見上げるシーンから撮影したという。息子を演じた北村和夫氏は、まだ何もシーンを撮影していないのに、そんなシーンが撮影できるはずはない。と思ったそうである。
だが、出来上がった作品を観てみると、自分のその演技が一番素晴らしいと感じられたという。

私は、仕事場で、「気まずさ」を表現する演技ができぬ人に、梅干がすっぱいという表情をしてください。と指示したことがある。
巨匠たちの仕事とくらべるべくもない、企業の教育ビデオの中のひとこまだったが、現場では妙なことを言うディレクターといぶかしがられるも、モニターを見ていたクライアント諸氏は、私の指示を納得したのであった。



いずれも、スタニスラフスキー的な内面を反映した演技が、ときとして説明的になることを危惧してのことである。

感情たる内面を反映した演技は、俳優に満足感を与えるが、それが必ずしも観客にとって至福のときを与えるとは限らない。そして、それは往々にして、観客を騙すことに繋がったり、演技過剰に堕ちてしまう。

ならば、演技術にさよならを告げることも、良識のひとつである。



俳優にとって、最良な演技とは、演技しないことである。


BYG氏の演技は、さまざまな演技術を参考にしながら、何物にも染まらずに輝いている。

すでに、岸田今日子氏が、「俳優がセリフを覚えることは、祭りの準備でしかなく、何物かに憑かれることによって、演技は完成する」との発言を紹介している。

何物とは、端的にいえば、スピリチュアルなものや、瞬間の感性といった、人間の意識や生理ではコントロールできぬもののことだろう。

BYJ氏が言語を越えて世界中の人の心を打っていることも、岸田氏の芝居をとりまく出来事と同じことが起きていたのではないかと、私は考えている。



BYJ氏は、その芝居において、肉体と生理を差し出している。そして、何物かが宿ることを彼が望んでいる。
ならば、彼はシャーマン(媒体・メディア)ということになる。

そう考えてくれば、BYJファンにとってのBYJとは、そういう聖なるものを受け取るためのメディアになっていることが分かる。
言語を越えて、彼の存在が多くの淑女たちの心を打つことはそういう理由がある。



BYJファンたちの絶大なる熱狂にも関わらず、彼がファンたちと平常心で交遊していられるのは、彼が自分がメディアでしかないことを知っているからだ。BYJファンは、BYJの肉体と生理をつかって、聖なるもの・超越を感じている。

それを知っているから、BYJ氏は自らを奢らずにいられる。



間違ってはいけない。

BYJ氏は自分の影響力の偉大さを知って、謙虚でいるのではない。

自分がシャーマン(超越なるものの語り部)でしかないことを知っているから、自分が超越なる者であると勘違いされることが嫌なのだ。

そして、彼が内省的で、謙虚な日々を暮らすことが、ドラマの現場で憑いてくれた超越なるものたちに感謝をささげることになる…。



私は、まだ「冬のソナタ」を語りつくしていないので、BYJ氏の別の作品を観ぬことにしているが、別作品で彼が変容しているということだから、あながち私の推理も間違っていないと感じるのである。

07sponta


追記:

私は、愛と平和を語ったジョン・レノン氏の末期を悲しい想いで振り返る。
そして、BYJ氏の人気と名声は、ジョン・レノンに匹敵すること考えている。

ならば、世界中の人たちは、BYJ氏が、愛や平和ではなく、家族と感謝について語っていることに気がつかなければならない。
すべてのBYJファンがそのことに気づけば、BYJ氏にジョン・レノンのような悲劇はやってこない。

私は、そのために、BYJ氏の公式ファンクラブのサイトで連作しているのだが、どれほどの人がそれを感じてくれているのだろうか…。





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Last updated  2007年02月08日 08時12分56秒
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