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2007年02月20日
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カテゴリ:冬のソナタ
c3

反論ついでにもうひとつ。
渡辺淳一氏の次のコメントに反論しておこうと思う。



ネタもとはこちら

以下、引用。

ところが、かの渡辺淳一先生によれば、『冬ソナ』がダメなのは、セックスが描かれてないからだそーだ。(平林享子/クローバー・ブックス)


「男たちは、若者から年配のおじさんまで、この種の、甘いだけの恋物語は、生理的に苦手。そしてなによりももの足りないのは、セックスが描かれていないことである。(略)性の深い絆が生じてこそ、本当の純愛は成り立つのだが、そこまで描く自信がなかった、というわけか。こうして描かれているのは、いわゆるプラトニックラブだけ。そういうきれいごとで逃げているところが、ドラマを独りよがりで、底の浅いものにしていることは否めない」(渡辺氏)(「週刊新潮」2004年8月12、19日号より)


このページを編んだ、平林氏は、なまなましいセックスがないから、日本の淑女たちに大受けしたと論じている。
二十歳前の未通女じゃあるまいし、日本の淑女たちがセックスに対する関心と興味を持たぬとでもいうのだろうか。

なまなましいセックスという文言に過剰反応すれば、情交シーンに波がザブーンとざわめき立つシーンがインサートされることを良しとでもするのだろうか…。

仄聞するに、亭主の強引な過分な要求に悩む淑女がいる一方で、セックスレスで悩む淑女がいる。そして、女性週刊誌・月刊誌では、性をとりあげる特集が販売数を伸ばす…。
ならば、セックスの不在をもってして、この作品の魅力を語ることは浅薄であると、私は断じて憚らない。

では、冬のソナタの魅力は何かといえば、

セックスのあるなしを超えたところにドラマをつくったこと。

セックスよりも崇高なものを描こうとしたところに、このドラマの稀有なところだ。




話を戻そう。

私は、渡辺氏の作品を読んできた。ドラマも見てきた。
本棚には、「シャトー・ルージュ」があり、「愛の流刑地」は日経新聞で毎日読んでいた。

「白い影」の田宮二郎と山本陽子のドラマは忘れないし、いまだに直江医師がなくなったあとの志村看護婦の脳裏を掠めるセリフ。「切らなきゃダメか」を憶えている。
原作の「無影灯」も読んでいる。

だが、これほどまでに分からぬ御仁とは思わなかった。



私が唯一著作を読破し、尊敬する吉行淳之介氏も、性愛の世界を描いていた。出世作は娼婦ものであり、作品の多くは性愛に翻弄される男性を主人公にしている。

私は人並みに助兵衛だから、吉行氏の作品を楽しんできた。だが、そのような欲望を客観視できる年齢になってくると、次第にさまざまなことが見えてくる。

そして、数年前、吉行淳之介に関するある分析に出合った。久しぶりにその原稿を読んでみると、すこし変更されているのか、印象が違っていると思えてくる。

まぁ、そんなことはいいとして、当時もそして今も、吉行淳之介氏について思うのは、性愛を越えたものを表現しようと、彼がもがいていたのではないか。ということである。



レナード・バーンスタインは、「歌について語ることは、歌うことでしかできぬ」と述べているが、どうように、「セックスを越えたものを表現するには、セックスを語らざるをえない」ということではないだろうか。


たとえば、ベルナルド・ベルトリッチの映画「ラストタンゴ・イン・パリ」は性愛を描いた映画なのだろうか。ルキノ・ビスコンティーの映画「ベニスに死す」やフェリーニの映画「サテリコン」は、男色を描いたのだろうか。

いずれも、性愛をこえた人間の存在の懊悩を描いたからこそ、映画史に残る評価をえたのだと私には思われる。



それからいえば、何故、大島渚の「愛のコリーダ」がもうひとつのところで、傑作たりえなかったかといえば、ドラマをそっちのけで、実際に「やっている」シーンを撮影することに専心してしまったからではないか。

「立つか立たぬか」などということに気をとられてしまった役者と「実際にしたこと」で評価される女優。現場にとってそんな悲劇はない。

局部のクローズアップがないのなら、実際に「おこなって」いようといまいと観客の想像の範囲であって、そのことで作品の価値を高めようとする行為は、品のないものと言って、さしつかえないだろう。



さて、私の映画学校時代の友人に、ピンク映画から映画監督になった男がいる。

彼は、アダルト・ビデオの現場では、会ったその日にカメラの前でセックスをしてしまう。すると、そこから始まる男女関係がなかなか複雑で面白いと語っていた。

吉行淳之介が娼家に入り浸ったのは、同様な理由からだろう。

セックスを目的として入り浸るならば、行為が終わってしまったならば、長逗留する意味はない。きっと吉行氏は、事後に深い関心があった。

事後にこそ、性愛を越えた究極の愛があるとの信念があったのではないだろうか。



タモリ氏と赤塚不二夫氏は、お互いの愛の証に、男色を試してみようとしたが、果せなかったそうである。また、北野武氏と島田洋七氏もまた、だめだったと告白している。
 ※ 照れでそう言っているのか、ほんとうにそうだったのか分からないが…。

だが、吉行氏は敢然と男色に挑戦し、大腸菌を勲章として頂戴したそうな。
…げに、小説家とは恐ろしいものである。



一方の渡辺氏といえば、行為が一向に終わらないのである。

彼は、性愛の行為において、男女の間にひとつになる感覚の中に愛を見つけ、その一体感こそが究極の愛と論じたいのだろう。
だが、そのような論理で、さまざまな倒錯した愛の形が納まっていくのだろうか。

勿論、失われたときに、その重大な価値が示されるというドラマを渡辺氏はつくっている。だが、それでも尚、性愛の永遠性を語っているに過ぎない。

私には、そのようなものは表層的な愛の形でしかなく、そういう表層的なものを表層的なものとして捉えなおすところに愛の本質を探る行為こそが、倒錯した愛の本懐ではないかと、考えるのである。

きっと、渡辺氏にはSMの世界は理解できぬだろう。
放置プレイなる深淵な世界を理解することはない…。

考えてみれば、渡辺氏は一貫して性愛を語ってきたが、主人公たちは極めて誠実な性欲の奴隷たちであって、芸術とは無縁の群像たちである。

彼のつくりだす物語の中で、男も女もエクスタシーの瞬間に奴隷から解放されるのだが、それとて、人生やカルマの時間と比較すれば、ほんの一瞬のことに過ぎぬだろう。



そのような感慨にひたりながら、冬のソナタを眺めてみると、セックスの不在が必ずしもこの作品の瑕とは思えてこない。

きっとフランスでの留学時、ミニョンとチェリンは交わったことがあったに違いない。だが、そのことで、チェリンがユジンに優位に立つことはない。

初恋の人と初めての人。どっちが勝つか…。などという下卑たドラマはここではない。

それでいいのだし、ユジンとチェリンが姉妹になろうとも、そんなことはどうでもいい…。

実際、この作品の最後話では、ユジンとチェリンが姉妹になったところで終わっている。

だが、それが何らのメタファーも提出していないことが重要といえる。


並木道02.gif





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Last updated  2007年02月20日 20時00分29秒
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