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2007年03月07日
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カテゴリ:冬のソナタ


では、観客たちは、何をして主人公たちの心情を感じているのかといえば、カメラと人物の微妙な関係である。
これは、能役者が微妙に面の角度を変えることによって、喜怒哀楽を表現するのと同じ役割を果している。

では、映画および映像表現において、能役者が行う能面の角度がどのようになされているかといえば、カメラと演技者の位置(カメラポジション)と角度(カメラアングル)である。



映画撮影において基本的に3つの要素がある。

それは、カメラポジション、カメラアングル、そして、フレーミングである。



【カメラポジションとは、人物に対するカメラの位置である。】

カメラが人物の正面にあれば、正対。
カメラがすこし斜めにあれば、ヒチサン。または、ハス。
カメラが横にはいれば、プロフィール。
カメラが裏にまわれば、シルエットとなる。

それぞれのポジションによって、表現されるものが異なってくる。

たとえば、正対であれば、人物の力、意志力が表現される。
ヒチサン、ハスにあれば、ごく普通な感じ。
カメラがプロフィールに入れば、客観的な視線で人物が描写される。
そして、後姿になれば、人物の孤独が表現される。



【カメラアングルとは、人物に対するカメラの高低からうまれる角度である。】

レベルとは、水平の位置から人物を捉えること。
このアングルを、目の高さ、つまりメダカという人がいるが、カメラの高さは目の高さではない。だいたい気管支の高さぐらいだろうか。
カメラマンがすこし下を向きながらファインダーをのぞいている撮影現場の写真が多いのは、それが、極めて基本的なアングルだからである。

もうひとつは、俯瞰(ふかん)。これは上から人物を見下ろす高さにカメラを置くことである。
これにより、人物が置かれている状況が分かりやすくなったり、人物の孤独であったり、人物が小さき存在であることが描出される。

最後は、アオリ。これは、人物を下から見上げる位置にカメラを置くことである。
これにより、人物は大きく、尊大に見える。とはいえ、このサイズを選ぶと野外撮影では青空を映すことで景色を映さないですむことから、何らかの事情があって、実際の景色を画面に取り込むことができぬ場合に使用される場合もある。



【フレーミングとは、人物のサイズである。】

遠くから人物を捉えるのは、ロングショット。
全身を捉えるのは、フルショット。
膝までがニーであり、ミディアムであり、胸までがバスとショット。顔だけがアップで、それ以上になると、ビッグクローズアップという。

「散策する」など、人物のたたずまいを表現するにはロングショットがいいだろうし、
「走る」などの人物の動きを示すには、フルショットがふさわしい。
バストショットは座っている人物を表現するための基本的なサイズであり、アップというのは、表情をより表現するために使われる。
だが、アップにしてしまえば、手の表現はできぬし、カメラマンのより主観的な意図を観客に感じさせてしまう。



映画撮影における三要素を理解していただいたところで、次は、映像編集の最大法則をお教えする。

それは、「同サイズ、同ポジションはけっして繋いではならぬ」というものだ。これは、小津安二郎監督に一番愛されるとともに、小津作品最大の証言者でもある井上和男監督から直接聞いたものである。

井上監督は、「同サイズ、同ポジションを直結してはならぬ」という原則について、その掟破りの例を出しながら、教えてくれた。それは、勝新太郎の座頭市の居合いのシーン。目にも留まらぬ仕込み杖によって、ろうそくなど、さまざまな物体が瞬時にふたつになる。

この原則は、もうひとつのことを示唆している。
つまり、「サイズがカット同士の方が直結しやすい」というもの。たとえば、インタビューの映像で、途中をカットしなければならぬことがある。その場合カットの大きさが明確に違えば、カットは繋がりやすい。だが、同じサイズ、同じポジションだとカットを直結させた場合違和感が残る。この場合、編集者は仕方なくオーバーラップ(ディゾルブ)というゆっくり画面を変えていく方法をとるのだが、それにしても違和感が払拭されるとはない。



編集と撮影の基本的な法則について説明したので、それが撮影現場でどのようなことになるかについて説明する。

映画のカメラマンが何を一番気にしているかといえば、それはコンテニュイッティー(コンテ、または、繋がり)である。つまり、カット(ただしくは撮影現場だからショット。でも、まぁ、ここでは分かりやすくカットで行く…。)のつながり。つまり、いまから撮影するカットの前のカットがどういうカットなのかということを一番気にする。そして、その後のカットが何なのかも気になる。

たとえば、私が撮影現場で指示するのは、「次は、直結のカット○○です。」とか、「次にいっちょ抜きのカット○○です」などである。つまり、直結とは、いま撮影したすぐあとのカットを撮影すること。いっちょ抜きとは、切り替えしのカットを後回しにして、ひとつ先のカットを撮影することである。

そして、直結のカットを取った場合は、直前に撮影したカットとなるべく似たようなカットを撮らぬようにする。つまり、ポジション的・アングル的・サイズ的のいずれかで変化をもたせることにより、前のカットと異なるものにすることにより、編集時のカットとカットの接着力を強めるのである。



さて、話が長くなってきてもうしわけないが、ここにおいてコンテニュイッティーの意味が理解されてきただろうか。

たとえば、前のカットがフルショットでヒチサンだった。もし、次のカットで、私がバストサイズでヒチサンのカットを選択すれは、カメラマンが「ポン寄りだよ」と監督を軽蔑するコメントを発するのである。

ポン寄りとは、カメラポジション・カメラアングルが同じでフレームだけ変えたサイズを直結させることであり、映画の現場では安直なコンテの典型とされ、批判される。

「ズームイン朝」などによって、巷間、ズームの効果が強調されている。テレビマンたちにとってはズームに自己批判はないのかもしれぬが、映画人にとって、ズームとは安直な手法であり、軽蔑の対象である。
あるべきはトラックアップ。つまり移動車をつかってカメラポジションを変更していくことである。



そのようにして、撮影現場のカメラマンも監督も、コンテ(ショットどうしの繋がり)のことを一番重要に考えて撮影を行っている。

だから、ひとつのショットを撮影したときに、次のショットが必要かどうかは極めて気になることである。
このシーンは、ワンショットで自立・成立するのか。それとも、アップを足さないと表現として不備があるのか。そのようなことを絶えず考えて、撮影はなされる。

たとえば、バストショットで泣いているシーンがあった。バストショットでは泣くしぐさは分かるが、涙そのものは分からぬ。それが撮影してみてはじめて分かったとするならば、監督は、オーケイを出した後、予定になかった、目元のクローブアップを撮影項目に加えるのである。

そのように撮影されたものが、編集によってバストショットとクローズアップショットが直結されることにより、俳優の演技がひとつのシーンとして成立する。



では、「四月の雪」はどうなのか。

このカメラマンと監督は、もうワンカット欲しくなるかならぬかのぎりぎりのところにカメラをすえて、BYJを撮影している。
私は、携帯電話のパスワードを探しているBYJのシルエットのショットや、劇場公開版ではカットされてしまった、茶碗を洗っているシーンにそれを感じる。たしか、舞台照明現場のシーンで、自分の手を照明にかざしながら色温度を確かめるシーンがあったと思うが、あの微妙なプロフィール気味のカメラポジションもそれに連なるシーンだろう。

演技を禁じられた演技者。
そして、境界領域ぎりぎりにポジションを組まれるカメラ。

それが、この作品の演出の特徴的なところである。





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Last updated  2007年03月07日 20時06分40秒
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