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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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2007年03月08日
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カテゴリ:冬のソナタ



劇場公開版とディレクターズカット版の違いについて、述べることにする。



私は、必ずしも監督が作品に君臨することがいいとは思っていない。

監督は、作業の中で作品への思いが強すぎるあまり、独りよがりになり、観客を置き去りにして作品をつくってしまうことが多々あるからだ。
だから、ディレクターズカット版は往々にして、正規版では表現できなかったことの言い訳になっていたり、一般大衆ではなく、自分のファンというコアな観客に向けて作られたものであり、価値を見出さぬことが多い。

そういう思想の底にあるのは、映像作家にとって時間管理も逃れることのできない演出の中の重要な仕事の一つであるということだ。

実際、アメリカ映画のハリウッドシステムでは、監督が編集権を剥奪されている。もしくは、限定的にしか編集権を行使できぬということがあるらしい。
先の「黒澤明vsハリウッド」で指摘したように、巨匠・ジョンフォードさえも編集権は剥奪されていたという。



さて、編集といえば、作品を短くしたり、長くしたりするものと考えている人が多いのではないだろうか。
つまり、編集によって雰囲気やニュアンスが変わるだけであって、作品の大筋は変わらないと思っていないだろうか。

だが、それは大間違いである。

改めて、セルゲイ・エイゼンシュタインのモンタージュ理論を紹介する。



食卓に座ってにっこりしている女性の顔のアップ(胸までのショット)がある。
次のカットで、カレーライスを編集で繋げる。
すると、これからカレーライスを食べようとする女性の嬉しそうな顔という表現になる。

これがエイゼンシュタインのモンタージュ理論である。



それまでの映画というのは、基本的にフルショットの連続であり、アップはなかった。
そして、いまでは考えられぬことだが、手紙を書く手元のアップがあろうものなら、「大木のような鉛筆」と揶揄された。

エイゼンシュタインの理論は、そのような時代にあって、革新的なものだったのだ。



だが、ここで考えてみよう。

食卓に座ってにっこりしている女性のアップの後に、恋人の男性の顔をつなげてみる。
すると、恋愛中の女性の嬉しそうな顔になる。ここにおいて、モンタージュ理論が抱える問題が浮かび上がってくる。

勿論、この場合は、テーブルの上にカレーライスのお皿と彼女が映っている広めのショットが最初にあれば問題はない。

とはいえ、撮影時に意図されたものが、いとも簡単に編集時に改変されてしまうということを、エイゼンシュタインは暴露してしまった。

それは同時に、シーンごとに成立していた映画の最小モジュール(部品)を、エイゼンシュタインはカットまで細分化したということでもある。



ここで、作品の時間的なパーツについて考えてみる。

シークエンス>シーン>カット

となる。シークエンスは簡単にいうと、一日ということになる。

その定義では、48時間というドラマでは、シークエンスは二つということになるから、意味を成さない。だから、シーンを越えたもうひとつ上のレベルの塊というふうに考えるのが妥当だと思う。

つまり、カットの積み重ねでシーンが成立し、シーンの積み重ねでシークエンスが出来上がる。そして、シークエンスの積み重ねで、起承転結のうちのひとつのパートができあがるのである。



エイゼンシュタインは、ひとつのシーンとカットの関係においてモンタージュ理論を展開したが、それは、シーンとシーンの配置を変更することにより、シークエンスの意味を変えることもできることを暗示している。

つまり、編集というのは、単なる要約(サマライズ)するための作業ではなく、極めてクリエイティブな作業なのである。



編集の名手というと、日本の編集界の名人・浦岡敬一氏のような、奇抜なインサートカットを使用する人をイメージするかもしれぬ。大島渚、今村昌平など、浦岡氏を尊敬してやまない映画監督は多い。
だが、そのようなものは彼の職人技の枝葉末節にすぎない。否、彼の凄いところは、そこにはなく、シナリオを読み込む能力と、芝居を読み取る能力である。そうして読み取ったものから、ある意味シナリオから自由になって編集に取り組む。そこにおいて職人技を見せるのである。



ここまで論じてきて、私が何を指摘したいのか、理解していただけるだろうか。

一言でいえば、「映画など、編集でどうにでもなる」ということだ。

編集の名手にかかれば、作品の迫力は増すし、シーンの意味も作品のテーマも簡単に変えることができるのだ。

映画は撮影されたものしか提示されないのだから、撮影現場がすべてだと思っていると、それは大間違いである。



こんな話がある。

ジョン・フォードの映画「駅馬車」で、クライマックスの駅馬車とインディアンのガンファイトがある。そのとき、弾丸が放たれたときに、白いフィルムを数コマ挿入したのだという。その白いコマは、編集作業用の白味というフィルムでしかないが、それが銃声とともに一瞬提示されると、硝煙が一瞬画面を横溢したかのように感じられ、ガンファイトの迫力は大いに増すのである。

あの迫力ある移動ショットの中で、さらに迫力を増すための技巧が施されていることは尊敬に値する。

きっと監督が編集現場に君臨していたら、撮影現場の苦労に押し流されてしまって、そのような加工を拒んだかもしれぬ。だが、撮影現場を知らない編集技師は冷徹そのもの。彼らは監督にとって、とても恐ろしい存在なのだ。

そして、そういう優秀な編集技師と渡り合うのが、一流の監督である。

一流の監督は、編集技師が自由に編集できてしまうような意味の薄いカットは撮影しない。
そして、一流の編集技師は、作品をさらにワンランク上のものにするために尽力する。

たとえば2ショットのお芝居で、セリフを発する人物の映像が必ずつなげられるとは限らない。
どのタイミングで、相手の顔になるのか、セリフの末尾が相手の顔にかぶるのか。それとも、セリフの頭が相手の顔にかぶるのか。ことはそう単純なことではないのだ。


そして、私が紡ぎ出す結論は、「監督が独占的な編集権を持つことは必ずしも、作品の質に直結しない」
であり、
「ディレクターズカット版は、かならずしも価値があるとは限らない」である。



では、「四月の雪」において、何が起こってしまったのか。

それは私にとっても、大変興味深い。

長くなってしまったので、以下次号。





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Last updated  2007年03月08日 06時22分37秒
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