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カテゴリ:冬のソナタ
さて、劇場公開版とディレクターズカット版について論じてきた。 今回は、その違いの最大のものであるともいえるエンディングについて考察する。 ※ネタバレを含みますので、両バージョンをご覧でない方には読まれることをおすすめしません。 ☆ 通常、ディレクターズカット版と劇場公開版の違いは、劇場公開版でカットされたものを付け足すことである。 つまり、クライマックス直後でドラマが終了していて、そのあとのアフタートーン(余韻)の部分が上映時間の都合によりカットせざるをえなかったことを埋めるために、ディレクターズカット版が作成されるのである。 だが、この作品のエンディングは妙である。 奇妙な形だが、最後のシーンのセリフまで、完全なままで使われている…。 ☆ 20年以上前のことである。 私は、映画学校の1000フィート実習で監督をさせてもらった。 その中に、主人公のカップルが海辺に向かうタクシーのシーンがある。 私は、主人公の心情を表現するためと、撮影状況の厳しさを勘案し、女性のアップだけで、そのシーンを構成することにした。同乗の男性はオフのセリフのみで表現するのだ。 撮影場所は、鎌倉の材木座海岸から江ノ島に向かう海岸通りである。 海辺を背景にした女性は美しいし、意味もあるが、その斬り返しでは、男性の背景は山側になる。それでは感興は盛り上らないと考えた。 だが、指導監督である田中登監督は、切り替えしがなければ、このシーンは成立しないと断言した。 1000フィート実習は、撮影の勉強でもあるが、編集の勉強でもある。切り返しのカットを撮影しておいて、後でどのように繋ぐかは、編集次第。撮影しても使わないことも大いにある。しかし、撮影していなければ、編集で使うことはできぬ。私たちは、指導監督の言葉に従い、切り返しのカットを撮影した。 そして、編集作業。当然のように男性のコメントはオフではなく、切り返しの映像が使われた。勿論、オフ気味になって、女性の表情に男性のセリフがかかることはあっただろう。 そのようにして、男性のカットがなくして、タクシーの中に男女がいるということを表現することは、極めて歪な表現方法であることを私は習得したのである。 ☆ では、 劇場公開版の「四月の雪」はどうなっているのか。 といえば、私が20年以上前に行なったこと以上にアバンギャルド(前衛的な手法)である。 ラストシーンでは、車窓の風景だけで、インスとソヨンの存在は、コメントだけで表現される。 たしかに、この映画では、トンネルを抜ける映像などの車窓の風景はあった。だが、それは、シーンとシーンを繋ぐカットであって、それ自体がシーンとして成立するような類のものではなかった。 私には、こういうエンディングを用意したホ・ジノ監督は、不可解なエンディングを作って、ディレクターズカット版をつくる必要性をつくろうとしたと考えている。というかそれ以外理解できない。 ☆ 車の進行方向の映像は、主観移動という。 それは、インスの見た目でもある。 見た目というカットは、切り返しである主人公のアップがないと成立しないのは、映画の文法の基本である。 勿論、それには例外は、ある。 それは、ハンフリー・ボガードが主演した「顔のない天使」である。 作品冒頭は、主人公の見た目がつづく。しかし、切り返しは一切ない。だが、その手法を使った理由は明確にあった。主人公は顔面を包帯につつまれていたのだ。 ボガード演じる主人公の顔がはじめて登場するのは、その包帯が解かれるシーンである。 (上記は完全にうろ覚え。ネットで確認したが、できなかった…。間違いだったら指摘して欲しい。ボガードの名作「俺たちは天使じゃない」の前後の作品で、B&Wだったと思うが。) ☆ 「四月の雪」で、そのような掟破りを成立させるような要素があるとは思えぬ。 そして、あのような濃密な構成を駆使する監督が、不可解なエンディングを容易することは、理解に苦しむのである。 エンディングはオープニングと呼応して設定することは、映像作家の一番の腕の見せ所である。 かつて、オーソン・ウェルズは、「市民ケーン」において、オープニングに豪邸の門を映し出し、ちっぽけなソリが燃やされるというエンディングをつくった。 「サウンドオブミュージック」は、アルプスの山々がつづれ折りのようにつながったあと、高原で歌うマリアから始まり、「すべての山に登れ」のコーラスで、トラップ一家が峰を歩いていく姿で終わる…。 ☆ そもそも、ラストシーンにつづくシーンで、二人を待ち合わせるシーンの風景に、私が見覚えがなかったし、雪に埋もれた花を唐突なものと感じてしまった。 たしかに花ではある。だが、奇妙な花であり、その印象は前後のシーンから遊離しており、河豚のインサートカットさえも思わせたのである。 劇場公開版は、ここにおいてまったくの意味不明。 私は、そこに何物も見つけられない。 もちろん、私はディレクターズカット版であり、劇場公開版の瑕を知っているので、すでに真摯に作品を鑑賞することはできぬから、批評する権利などないのだが…。 まことに不可解であり、その不可解の意味を探る気持ちにもならぬ。 まさにそれに尽きるのであり、その答えが、ディレクターズカット版の必要性につながっていくのだとしたら、ホ・ジノ監督の演出意図は、明確に私に伝わったことになる。 なんとも皮肉な話である。 追記: さて、監督がそのように作品を穢すようなことをして、抵抗することはない。と思う人がいるかもしれない。 そんなことはない。松竹出身の山根成之監督作品「黄金の犬」では、島田陽子がバストトップを隠すために張られたバンドエイドが大写しになったカットが編集で残されている。やる気のない女優への見せしめとして、監督が行なったそうである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年03月09日 23時10分53秒
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