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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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2007年03月16日
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カテゴリ:冬のソナタ
【言論対照は当事者にはできぬ。議論とは、ステークホルダーの対立でしかない。インテグレータの登場を切に願う】



スポンタのアナリーゼをお読みいただいてありがとうございます。

「四月の雪」のアナリーゼは終了し、これから別のアナリーゼをはじめようとしているところです。

ペヨンジュン公式サイトにおいて、ファン心理を冒涜しかねない私の暴論を皆さんがおもしろがってくれている。それが私には嬉しいことだし、お読みいただいた皆さんに感謝することは勿論、素晴らしい出会いがあったとBYJ氏に感謝しています。

ロム専の方もコメント者の方も等しく感謝しております。



最近、コメント欄での対話の中で、とても驚いたことがありました。

それは、ほとんど理解されないだろうとして書いた印象批評という文言に、多くの皆さんが反応されたということ。



実は、このコミュニティーに限らず、ネット上の掲示板というのが実は曲者で、リアル属性を離れたところで多くの人たちが発信をしている。そのことが、発信者にとっては、好都合であっても、受信者にとっては、必ずしもハッピーな状態ではない。

そのような掲示板において、個の発信が印象批評すぎぬということさえ、悪口にしている。ということ。

実は、印象批評とは、批評の本道であって、必ずしも悪弊ばかりではない。しかし、それがアイデンティティー(個の文脈)が定かでないものによって成されると、読者は戸惑うし、時によっては、嫌悪感を感じてしまう…。



私は、「固有名詞がなければ価値を創出しない情報はゴシップに過ぎぬ」と断言しているのだが、個の文脈を離れて、印象批評が情報として価値を有することが極めて難しいということを、感じている。

具体的にいえば、「あいつの言うことならば、正しいんだろう」「あいつが言っているのだから、賛成しておこう」などというのは、あまのじゃくの私にとっては汚辱の一つなのです。

その都度、その都度、私の言論が真剣に吟味され、「間違いが指摘されたり」「視点・視座・語句の定義の違いが確認されたり」「御互いの意見の乖離がフォーカスされたり」…、そういうことが本当に嬉しいことなのです。



知人に、保険の外交をしている人がいるのですが、彼は、お客さんが、保険の詳しい内容を顧客が読んでくれない。理解してくれないと嘆いています。

数十年来の信頼関係があり、顧客の彼に対する信頼は揺ぎ無いことを示していることに、彼は感動する。
しかし、もうひとつ別のフェイズでは、保険商品の内容をしっかりと把握していただいて、自分が推奨する商品の価値を知っていただくともに、自分がその商品をおすすめする理由を合理的に理解してほしいと願っている。



専門家にしか吟味することができなくなった金融商品は特別な例かもしれぬ。
だが、映画も、そうした構造と無縁ではない。



さて、私がアナリーゼを展開してきたのは、個的な鑑賞にすぎぬものを、読者にとっても価値あるものとして提示するためである。
そのために、いくつかの視点を用意した。

・小学生の頃から、「恋愛ドラマ」を観続けてきた私。
・映画観客である私。
・映画学校で演出を学んだ私。
・シナリオを学んできた、書いてきた私。
・テレビドラマの現場にいた私。
・演劇の現場を知っている私。
・プロデュースに関わる事情を知っている私。

そして、
・BYJ氏を尊敬する私。(家族の思想性。親衛隊をつくらず、韓国芸能界や韓国全体の思想と一線を隔すことにおいて。)
・BYJ氏をアイドルとして感じない私。

それらを、鑑賞において明示的に分析することが、私のアナリーゼの身だしなみだったのである。



では、BYJファンの皆さんが、BYJ氏の出演作を鑑賞する場合はどうなるのか。
私が勝手にイメージすると、次のようになる。

・BYJが好きな私。
・BYJの作品をすべて観た私。
・BYJの芸能ゴシップを全部知っている私。
・作品のゴシップ、メイキング情報を全部知っている私。
・韓流ドラマを沢山見ている私。
・他の韓国俳優たちのことを知っている私。

…などが主たるものといえるだろうか。



それはそれで悪いことではないだろう。

ファン同士ならば、それがたとえ他者のものであろうとも、自分の感覚・意見するものと同じならば、違和感は感じぬし、嬉しいものなのかもしれぬ。

だが、そのことを主張することで、ファンではない周囲との摩擦が起きなかったとでもいうのだろうか…。



ただ、私は、「コピイ&ペイストが専らなインターネットの時代において、他者の中に自分を見つけることに価値はない」し、「差分のない個のコミュニケーションこそ価値がある」と指摘している。

ならば、感性を触発しないコミュニケーションは、アイランド現象にすぎぬと嘆くのである。

そして、さらに厳しい言葉を提示するならば、良識ある映画制作者は、そのような観客を目当てに作品を作ったりはしない。ということである。



たとえば、テレビにはアイドル番組がいくつかある。それらは、ファンに向けた番組づくりをしている。低予算という理由もあるのだろうが、想定する視聴者をアイドルの固定的なファンを視聴者層に想定している。

だが、そのようなことと、BYJ氏も、彼が選んだ優秀な監督たちもまったく無縁である。彼らはファンに迎合するような作品を作っていない。
否、ファンが熱狂すればするほど、それを裏切りつつも、作品として充実したものを作ろうとしている。

魅力的な異性としてBYJを見ていない私が言うのだから確かなことである。いまもって、私はBYJ氏の演技を意識して作品を鑑賞したことはない。そして、作品全体のすばらしさに驚嘆する。



引越し荷物を前に、ジャージャー麺を食べ、窓辺には成長した植木がある。

それらを読み取ることが、鑑賞者にとって、幸福なことであるとは、私は思わない。

それらはある意味ゴシップであり、付加情報でしかない。付加情報やゴシップに惑わされて、本来味わうべき、インスの思いに鑑賞者が心をゆだねることができぬならば、こんなに悲しいことはない。


俳優にとって、その指輪が重要なものであり、それがファンにとっても親しげを感じるものだとしても、それがドラマに悪影響を及ぼすならば、それを使った表現をしてはならなかった…。

特定のマニアに向けて作品をつくることなどありえないのである。



マニアというものは、その信仰対象にすべてを委ねてしまって、平衡感覚を失っていることが珍しくない。それは、悲しいかなストックホルム症候群的な傾向を持っている。

教祖の間違いは、それが自分の価値を貶めるもであろうと、間違いではない。昨年。私が女性小説家のオフ会の後に、ファンであれば当然のように感じたであろう不満をブログで指摘したことで、沸き起こったバッシングは、その一例といえる。



同様の構造が、「四月の雪」にもある。

それは、制作者が劇場公開版の他に「ディレクターズカット・完全版」などをリリースしたことは、劇場公開版を愛してきた人たちへの背信行為である。

劇場公開版とディレクターズカット版と命名されているから、分かりにくいが、初期リリースの正規版から時を経て、アップグレード版が登場したと考えればよい。



劇場公開版を愛好してきた人たちは、それを否定する「ディレクターズカット・完全版」を容認しない。

正規版のテーマは、「復讐と背徳」。アップグレード版のテーマは、「セックスとぬくもり」。どちらのテーマの方が人間の深遠なる存在に近いかは論じるまでもない。
だが、そのような分析にも関わらず、正規版の愛好者は、「復讐と背徳」の物語以上のものを「四月の雪」から読み取ろうとはしない。

ソフトの世界では、アップグレードされたアプリケーションに文句を言う愛好者は珍しいことではない。

だが、何故、ディレクターズカット完全版がつくられ、その惹句として、「ホ・ジノ監督が本当に伝えたかった物語」がつけられたのかを考察するならば、それは浅薄なことだと気づかざるをえまい…。

「四月の雪」という同じタイトルがついている以上、バージョン・ダウンはありえない…。
少なくとも、監督をはじめとする制作者たちにはバージョンアップだったのだ。



だが、ここには、もうひとつ複雑な事情がある。

ディレクターズカット版の作業とは、あらたな作業ではなく、劇場公開版のために、なされた加工を元に戻す作業だということ。

ディレクターズカット版は、初稿とでもいうべきもので、初稿には、撮影時の意図のすべてのエッセンスが含まれているはずである。



編集作業とは、まず順つなぎをし、その後に、演出的な編集がなされる。

そのあと、プロデューサーも絡んで尺調整も含めた最終編集が行なわれる。

劇場公開版は、「分かりやすさ」によって、「復讐と背徳」の物語にしたてられ、「上映時間の制約」によって20分カットされた。

監督は、アイロニーなどと嘯いているが、彼が作りたかったのは悲劇である。
ウッディー・アレンやビリー・ワイルダーではない。



蛇足までに、アイロニーとトラジェディーの違いを確認すれば、人が死ぬかどうかである。

人が死ななければ皮肉(アイロニー)などと嘯いていられる。だが、人が死んだら、それは深刻な出来事であり、悲劇(トラジェディー)である。

「四月の雪」では、ソヨンの夫が亡くなっている。人の死をもって、アイロニーを読み取るのは薄情である。



そういえば、映画「2001年宇宙の旅」において、一度見ただけで分かってもらっては困る。などという制作者側のコメントがあったのを覚えている。

だが、そのようなものをスタンリー・キューブリックが望んだのではないだろう。

すばらしい作品とは、そのようなものではない。

はじめて観たときは、はじめての感動があり、
二度目に観たときは、新たな発見があり、
三度目に見たときは、もっと大きなことに気づかされる。

ニ度見なければ分からぬなどという作品は駄作である。
何故なら、一度見て、おもしろくないと思った観客の多くは、ファンでない限り、二度見ようとはしないからだ。つまり、マニアな固定客を相手に作品を紡いでいるのである。

深い意味だけを持っているだけでは、深い作品にはならない。単なる難解な作品なだけだ。

表面的な意味がまず充実していることがなければ、深いなどということに意味はない。
深さとは、水面と水底との距離であるのだから、当然のことであろう。



あるべきは、あらすじ的なストーリーとして、破綻がなく、感動を呼ぶ。
それが、心のストーリーとしても充実している。
さらに、俳優の演技だけでなく、さまざまな暗喩・暗示・シンボルが映像に盛り込まれていることである。

引越しのシーンで、シーンを覆っている雰囲気ではなく、画面片隅の観葉植物から、観客がシーンの意味を読み取るのだとしたら、それは本末転倒である。
それは、マニア同士ではお楽しみなことであっても、作品の鑑賞者としてはけっして褒められたことではないだろう。

知ってしまったことを、いかに鑑賞において捨て去ることができるか。ここが、鑑賞者に求められることである。








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Last updated  2007年03月16日 10時12分06秒
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