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カテゴリ:「テレビウォッチ」
結局のところ、この作品の瑕は、本来は主人公の内的葛藤であるべきカタルシスをストーリーレベルで表現してしまったことです。
父と子の対立。 昔の女性との再会。 妾と正妻の対峙。 それらの複雑な状況に登場人物たちはなんら逡巡することなく、すべてを吐き出してストーリーが展開していく。 せいぜい内的葛藤に逡巡していたのは、弟だけ…。 ☆ このようなシナリオを許した番組制作者の桎梏を思う…。 シナリオ作法と作劇術が大学の正科としてとりあげられるまで、このような状態は続くのだろうか。 私は、シナリオとは数学であると教えられた。 だが、日本の制作現場では、シナリオは人間関係の力学によってずたずたにされる…。 ☆ 考えてもみてください。 高倉健さんは義理と人情の間で葛藤していましたが、義理に流される場面と、人情に流れる場面があったのではない。 彼が内的葛藤をセリフにして告白することもない。 義理と人情の葛藤を表現していたのは、彼の演技ではなく、背中の唐獅子牡丹だったはず。 彼が演じるキャラクターは、人情に流されそうになりつつも、常に、義理に殉じて刃傷に及ぶのです。 ☆ 演技術ということではなく、存在感という言われ方がし出したのも、スタニスラフスキーシステムの不備に多くの人たちが気づいたからでしょう。 ご父君を演じた北大路欣也氏は、その系譜にあり、あの作品にあっても傷つくことが少なかった。それは、スタニスラフスキー的である木村拓哉氏の芝居よりも嘘がないということでもある。 すばらしい演技などと評価されるものも、その大方は、この内的葛藤がシナリオにあるかどうか。 その内的葛藤は、俳優表現として成り立つレベル(憑依)のものかどうかは疑わしい。 そして、もし、それが演技術に直結するものだとしても、それなくしては俳優がどんなに力を尽くしても何の成果も得られぬ。 その意味で、私は木村氏は犠牲者だし、過去を題材に取り、大掛かりな撮影をしくんだTBSドラマ制作班は、確信犯なのです。 しかし、どんなに話題を呼び、視聴率を稼ごうとも、満たされぬ思いがそれぞれの人たちの心の隅に残っているだろう…。勿論、彼らが本当の意味でのドラマティストであれば。 そんな作品でした。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年03月22日 19時21分35秒
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