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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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2007年03月26日
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カテゴリ:冬のソナタ

※主張でも、アナリーゼでもなく、私の感想を書き留めておく。

すでに、「四月の雪」ディレクターズカット完全版を見ているが、その感想・アナリーゼにつき、さまざまな反響があった。

その多くは、劇場公開版の支持者であり、私がディレクターズカットが傑作であるという指摘に対する不快感の表明であった。

ひとつの作品を褒めることが、別の作品を貶すことになるという状況に陥っていた。そして、私の言説に対して不快感を示す人の中には、同じ素材を編集した作品にも関わらず、二つは別の作品などと訳のわからぬことを言う人もいる。

そこで、ディレクターズカット版を見てから1カ月が過ぎたので、劇場完全版を見ることにした。
なるべく、ふたつの作品を比べぬようにして、まっさらな心で観ることを心がけた。



この作品を一言でいってしまえば、「理想を忘れたリアリズムは、観客を幸福にしない」である。

芸術などという言い訳もあるが、要は、「救いのない映画」である。

主人公のふたりに懊悩はない。苦悩はあるが、葛藤はない。
つまり、ディレクターズカット版では、「セックスかぬくもりか」どちらかの選択を主人公たちは迫られていたが、劇場公開版では、どちらかを選択するような設定はないのである。

これでは、運命に流されるだけの人生である。



たしかに、ビットリオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」の主人公たちも運命に流されるだけだったかもしれぬ。

だが、彼らは誠実に戦時中を生きた。

私は、この作品の主人公たちから、そのような切実さを感じることができない。

主人公たちの情交が、かけがえのない、内的真実の結実とはどうしても思えない。

それは、極めて自然な出来事かもしれないが、それを「なりゆき」「ゆきづり」と言ってなじることも可能だ…。



それが現実であるとしても、そんなものをお金を払ってまで映画館で見せられる観客もたまったものではない。ましてや、BYJファンには、もはや作品を批判することは禁じられているのだから…。私は、淑女たちの辛さを私は思った。



宮崎駿監督は、「何故、あなたの作品では女性の主人公が多いのですか?」と問われて、「女性の人生の方が、多くの決断を強いられるから」と答えた。

経営学者のピーター・ドラッガーは言う。「論理的帰結を下すようなものを決断とはいわない」。

つまり、仕事をつづけるか、結婚を選ぶか。それは、立派な決断である。
だが、年収500万円の企業と年収1000万円の企業を比べて、どちらに就職することを選択するようなことは決断ではないのである。



明け透けもなく言ってしまえば、男とは、どんなときでも、きれいなお姉さんがいたら、いつも「お願いしたい」と思っているものである。

男性主人公に訪れた幸福は、そんな思いが叶った幸運のひとつでしかない。



女性主人公は、何とも浅はかな女である。

私は、妻に、「この作品の愚劣さは、主人公の女性が同じ過ちを二度繰り返すことである」と指摘した。
「見合い結婚とは、すきでもない男とエッチし、エッチしたことで、男を好きになることである」、と。

そのお見合い結婚が不倫の発覚で台無しになり、それが人生として価値のないことだと分かったのに、ヒロインは同じ轍を踏んでいる。

すると、洗濯機を操る妻は、「そういう女って、よくいるものよ」とことなげに言う。

ま、そうかもしれぬ。

この作品は、今村昌平の「にっぽん昆虫記」のような作品かもしれぬ。

だが、今村昌平のように、昆虫のように生きる女性の強さ・たくましさを描くのではなく、昆虫のように生きる女の、可愛くもない弱さや、狡猾さにも至らぬ浅はかさを描くのだとしたら、そんなつまらぬことはない。

そして、そのような浅はかな女に魅入られてしまう男のはかなさも描かれていない…。



この作品の監督は、復讐を描いたなどと嘯いているそうだが、それは、作品中の刺身店で主人公たちが笑いながら語り合うのと同じレベルの戯言である。

監督は、人生のアイロニーを描いたという。私は、アイロニーなどにはなっていないと思う。ただし、悲劇よりもひとつ価値の低いものとアイロニーを定義すれば、アイロニーということになる。

だが、ウッディー・アレンやビリー・ワイルダーのような仕組まれたアイロニーではなく、悲劇に昇華できなかったためのアイロニー劇…。そんな印象を受ける。



一貫して作品を観れば、オープニングの電話の音の表現も、エンディングの声だけの処理も違和感はない。アバンギャルドという程の表現ではない。

これは、破綻のないひとつの映画であり、BYJファンのように絶賛することを義務づけられていなければ、単純にやり過ごしてしまうだけの作品である。



さて、DVDの特典映像である、メイキングを見た。

現場で収録映像を見ているBYJがいる。

この間NHK教育で、マーチンスコセッシ監督が、今村昌平監督を語る番組を見た。番組にゲストコメントを寄せた緒方拳氏は、今村監督が、「俳優はラッシュを見なくてよろしい」と、言い試写を見せなかったというエピソードを紹介していた。

監督と語り合うBYJ氏の姿もあったが、私には、それが必ずしもいいことであるとは感じなかった。そして、撮影現場で巨大なカメラを持つ彼に、「影武者」を降板させられた勝新太郎のことをイメージした。



メイキングフィルムで登場するシーンは、作品でもキーになる場面であり、演出家がこだわりを持って臨んだシーンのはずである。

そこで、観客に御互いの連れ合いが車中でオーラルセックスをしていたために、運転者がセンターラインを越えてしまい交通事故を起こしたことをイメージさせるルームミラーに掛かっているネックレスのシーンが紹介されていた。

カメラはフロントグラスの外にあり、ネックレス越しに俳優を映し出す。

私が驚いたのは、そのシーンが、ヒロインだけでなく、男性主人公でも収録されていたことである。

監督は、男性主人公が、オーラルセックスで交通事故を起こすという心理的発端から復讐心を紡ぎ出すという編集も可能だったのに、あえて、そのような編集は行なわなかったのである。

そもそも、監督は「復讐」をテーマに作品を紡いでなどいないのである。



そして、この作品が破綻しているのは、「いつでも、どこでも」きれいなお姉さんがいたら、「お願い」したい私のような男性を描いていながらも、常駐しているホテルで情事を結ばないところである。

ここにおいて、監督にとって、この作品が、制作体制に押し流されて仕上げをした作品に過ぎないことを露呈している。

※私は批判のための批判をしない主義であるから、語るべき価値のない作品を語ることはしない。今回、異例として批評を述べたのは、劇場公開版と無関係に、ディレクターズカット完全版が素晴らしいことを暗喩してのことである。





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Last updated  2007年03月26日 08時38分05秒



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