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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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Headline News

2007年04月06日
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電通総研元社長の「10年後、新聞とテレビはこうなる」という本を読んだ。

私と彼の言論の乖離は深い。



著者である藤原氏は、インターネットの特徴を次のように指摘する。


・グローバル性

・双方向性

・時間的空間的制約のなさ






・グローバル性


だが、私が指摘するまでもなく、 言語の壁は厚く、インターネットがグローバル性を実現しているとは考えにくい。

たしかに、アメリカのYouTubeが日本で流行しているが、言葉の壁は厳然としてあり、真のグローバル性が獲得されているとはいえない。


・双方向性


インターネットで、これが実現しているなどとはいえるはずもない。ブログが普及・一般化しているが、有名人ブログではコメント欄が閉鎖されていることがほとんどだし、トラックバックも認証制の場合が多い。

メディア企業も掲示板を開いたりするが、自社を毀損する言論には無視を決め込む。
つまり、形ばかりの双方向通信は成立しているが、それぞれが一方通行であり、対話や御互いの気づきを生むようなことはほとんどない。


・時間的空間的制約のなさ


これについては、インターネットのシステム上、否応もなく実現している。

しかし、「朝まで生テレビ」のような24時間365日の会議の場がインターネット上に存在していない。

そして、日本では、理解に苦しむことだが、民主主義にとって一番重要な選挙関連の言論活動がインターネットで禁じられている。

最近でも、「きっこの日記」が、すでに提出していた石原慎太郎氏の批判言論を削除するという事件が起きた。これは、かの人気ブログの背後に選挙関係者がいることを暗示しているし、それは日本のインターネットにおいては、「時間的な制約がある」ことを示している。



日本を代表するシンクタンクのトップの解析・認識と、ネット者としては凡庸な存在でしかない私のインターネットに関する認識が、正反対といってもいいほどにかけ離れているのは不可解である。



さて、藤原氏は、「大衆→分衆→個」という流れで、消費者(メディアの受け手)を分析している。

テレビの全盛期は大衆の時代であり、1980年代なかばから分衆の時代が始まる。そして、インターネットによって個の時代がはじまった。
インターネットが登場するまでは、分衆とは、引き裂かれた大衆でしかなかったが、インターネットにより個を主張することができるようになった。というのだ。

だが、そのように分析している彼が捨象していることがある。
それは、引き裂かれた分衆同士、そして、個同士がコミュニケートすることである。

つまり、B2Bの時代(B2Bの都合によって、B2Cが左右される時代)から、B2C(BがCのために活動する)の時代まで、彼は論じることをしたが、C2Cの到来は決して論じていない。



私とて、今後の新聞とテレビにとって変わってC2Cの時代が来るとはいっていない。

C2Cコミュニケーションの中に、B2CやB2Bのコミュニケーションが混じっているというのが実情だと思う。

そして、藤原氏が唱えるeプラットフォームのようなものは誕生してくるとは思う。

ただし、それは、あくまでP2Pコミュニケーションの中の部分集合のひとつでしかない。

そして、電通総研社長の藤原氏が、eプラットフォームに君臨することを念頭に言論しているならば、それは後輩たちに通じ、頭脳明晰であるとともに圧倒的なパワーを持つ電通マンたちは、それを実現するに違いない。

しかし、そういう大本営的メディアに電通が君臨すればするほど、そのメディアのサイズは収縮していくに違いない。



藤原氏は、司法・行政・立法の三権の外に、三権を監視するマスコミが、第4の権力として存在したという。

そして、今、ブログの登場によって、第4の権力を監視する権力として、インターネットが第5の権力として登場したと指摘する。

たしかに、きっこの日記や2ちゃんねる。そして、さまざまな市民参加型ジャーナリズムの興味の矛先に既存メディアがあることは確かである。

しかし、インターネット言論の目的が既存メディアの批判のためにあるなどというのは情けない…。



そして、彼らがそういう言論をする理由はただ一つ。

インターネットがダイレクトに、司法・行政・立法の三権に関わることを避け、第4の権力がボロボロに傷つきながらも、第4の権力としての立場を既存メディアが温存することを願っての言論に他ならない。

そもそも、この国は、民主主義で営まれている。

ならば、権力とジャーナリズムが相互に監視しながら、世の中を運営していくというモデルは間違っている。
インターネットが世論をまとめ、司法・行政・立法の現場に反映させることが、あるべきモデルなのだ。



藤原氏は、次のように自らを誇っている。(P.165)

2005年10月10日、新聞週間特集・読売メディアフォーラム「新聞の新たなる挑戦」において、201X年を境として、新聞は経営に革命的変化が生じ、紙を前提としない新聞経営を迫られる。

(既存メディアとインターネットの)「融合」後、新聞社は紙を前提としない経営になる。


いま、新聞やテレビに翳りがある今、藤原氏がそのように言うのは極めて自然であり、凡庸な言論のひとつとしか感じない。

否、そのようなことを、とりたてて大きな手柄をあげたかのように語る藤原氏の真意というものが、私には理解することができぬ。



私とて、新聞社の経営が紙主体ではなくなることに同意する。

確かに、宅配型の日本の新聞メディアの変化は、広告依存型のアメリカに比べて緩やかなものとなるだろう。

しかし、その時代が来るには、ふたつの条件があり、それが満たされぬ限りは、新聞社は紙に固執し続けるだろう。

そして、その条件とは以下。


インターネットは、永遠のベータ版であること。

そして、ログが残ること。


だが、過去のステークホルダーに縛られて、新聞人たちは身動きがとれぬ。

結果、新聞社・新聞人たちは紙に固執するにしかない。

否、紙に固着しつづける人たちが一人としていなくなることはありえない。とさえ思うのである。





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Last updated  2007年04月07日 13時28分09秒
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