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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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Headline News

2007年04月17日
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「定例記者会見の回数を増やせ」と取材記者たちは要求を出したそうだ。

「紙面2ページをつかって、記者会見の内容をすべて載せるなら考えるでもないが…」と、知事は反駁したという。

それに対して、当該取材記者は、「それは編集権を侵すものであり…」と不快感を表したようである。
(テレビ報道による私の印象記憶による)

*

私が購読している産経エクスプレスには、東国原知事のコメントとして、次のようにある。

「定例会見って必要ですかね」
「特筆すべきことがないときは、なくてもいいのでは」
「あなたたち(記者)が聞きたいことが必ずしも県民の聞きたい事は思わない」
「必要なときだけやるか。県民の皆さんに聞いてみましょうよ」

*

宮崎県が、県民のみなさんに聞いてみる具体策を行なうことを期待する。

勿論、そこには言論プロの特攻や工作が頻出するだろう。だが、それをいかに排除するかが正念場である。

そのような言論操作を恐れて、県民の意見を抽出するメディアを構築しないことをこそ、インターネットの時代の精神に反することである。

まずは、中立的・独立的な第三者機関が、県庁とは一定の距離を持って、県民の意見抽出メディアを構築すべきだろう。



かねてから私が指摘していることが、宮崎県庁で起こっている。

ことの問題は、メディア人が編集権を独占・寡占していることにある。



ただ、編集権を発信者に渡せというのが、解決ではない。

東国原知事は言う。

メディア人と県民の意識は乖離しており、県民軽視である。…と。

私は思う。

メディアのマスディストリビューションという性質上、ある種の独占・寡占はしかたのないことだろう。

だが、外を意識しない独占・寡占は、ユーザー無視であり、そのようなもとで営まれたものはひとりよがりになり、ユーザーの支持をなくすことは目に見えている。



石原東京都知事も、定例記者会見ではさまざまな軋轢があったと記憶している。

結果、最近では、定例記者会見の内容がMXテレビで放映されている。
若い記者たちに、勉強を促す石原氏の言葉は、時に優しく、時に厳しく、語りかける。

短く編集されて放送されるニュース報道とは違って、張り詰めた雰囲気の中にも、和やかなものが感じられた。

この放送で、唯一納得できないことがあるとすれば、記者側の映像がいっさいないことである。
質問する側も、質問する内容も、ひとつの言論・発言であって、その者たちの映像が一切ない。

これは、質問する側の主観性を隠蔽しているひとつのエピソードともいえる。



昨年だったか、佐賀県知事の記者会見のケースを覚えているだろうか。

定例記者会見で、毎日新聞記者が、天皇陛下の来県費用が無駄だと指摘した。そのとき、当該記者は、皇室に関して使うべき用語たちを使わなかった。
その後、定例記者会見の内容はYouTubeで流され、ネット上で情報共有されることとなった。

そして、当該記者が在日であり、いままでも記者会見で在日的な言論活動をしていたことが、明らかになった。

在日の人たちは異民族であり、帰化せぬということは、国民であることを拒否している。だから、天皇陛下に尊敬の気持ちがないのは仕方のないことかもしれぬ。
とはいえ、日本国憲法で国民の象徴と規定される対象に対しての国民感情を理解せず、逆なですることに意味があるとは思えない。

勿論、そのような者が存在してもいい。
ただ、そういうリアル属性を隠蔽して振舞うことは、批判を免れないのではないか。

特に、国民の象徴関連に言及するのであるならば、日本国籍を持つか持たぬかを明かすことは、質問者としては必要不可欠なことだと思えている。

当然のように、2ちゃんねるで当該案件は話題になり、毎日新聞には電話での抗議(電凸:電話突撃)が行なわれた。
そして、電話での抗議の内容が、ネットで明らかになった。



私は、電凸の仔細の書きこみに接し、当該記者はともかくも、そういう同僚を持ち、世間の批判にさらされながらも、何ら有効な対応がとれない新聞人たちの辛さを思った。

それは、私以外のネット者たちも同様で、書きこみたちの多くには、会社内の異分子(日本社会のコミュニティーにとって)に翻弄される日本人たちへの同情・哀れみが、感じられた。

リアルとネットという違いはあるが、メディア機関の中で異分子と対峙している新聞人たちも、2ちゃんねるの「東アジア言論」関連掲示板で激論を繰り広げている人たちと同じ境遇に置かれている。
だから、ネット者の中に、毎日新聞の新聞人たちの心に思いを寄せるのものが少なからずいた。

ただ、その状況に対峙し、その状況を変革していこうという意志が感じられないところに、苛立ちと絶望があったことは否定できぬ…。



考えてみれば、CNNというのは、「いま起こっていること」を「いま報道する」ことで、人気を集めた。

もちろん、それまでニュース専門チャンネルがなかったという理由もある。だが、いままでの3大ネットワークが、情報をさまざまに加工して出していたことに対する反発もあったのではないか。

メディアが独占的に行使する編集の主観性を、視聴者は必ずしも好意的でないことの現われだろう。



松坂投手の取材にボストンを訪れたフジテレビの小倉智明氏が、報道パスで球場に入ったために、松坂に話かけることができなかった。と裏事情を明かした。

もし、報道パスでなかったら、客席から応援の声をかけることができたのに…。

ご存知の方も多いだろうが、松坂投手に日本からの取材陣が200人以上も殺到しているため、通常はマスコミ人に許可されるロッカールームへの取材が禁止されたという。

そして、松坂フィーバー以前からのルールとして、「練習中・試合中に関わらず、取材記者は、選手たちに言葉をかけることは禁止されている」という。

取材は、ロッカールームでやるものであり、野放図に、いつでも取材するというのは、マスコミのご都合主義でしかない。というアメリカ社会の合意なのだろう。



東国原知事は、定例記者会見を受けるし、ぶらさがりのコメントも多々残している。

それでも尚、何も報道されていないと彼は不平を言う。

現場で何が起きているかは、容易に想像がつく。

*

まずは、定例記者会見の場をオープン(映像中継)にすることからしか始まらないのだろう。

記者会見がオープンになることによって、社会の眼によって、メディア者たちの編集内容の妥当性・合理性が吟味されることになるのだ。

ただし、そういう社会の眼が吟味をしたところで、その意見をインテグレートする機関、オーソライズする機関がなければ、批判は単発化し、漂ってしまう。

ネットの欠点は、一切のインテグレートシステム・オーソライズシステムを持たぬことである。

それにより、既存メディアの専横はつづくに違いない。

とはいえ、佐賀県庁の知事会見で毎日新聞記者が浴びたような社会的批判は、今後とも起こるだろうし、そのような構造を払拭しない限り、新聞の崩壊は続いていく…。

新聞人が、編集権の不可侵の正統性を主張するのは批判に及ばない。

ただ、編集権が行使された紙面が、読み手のニーズに応えないとするならば、編集権を誇ることに価値はない。

新聞が社会的な重要度の評価を得ているにも関わらず、大衆・分衆のニーズを満たしていないなら、その重要度の実体が見かけだけである。

それが真実ならば、そのような見かけだけの重要度を誇る取材者たちに、首長に対する代表質問権を与える定例会見は、カイゼンが必要である。


東国原知事は、そのことを暗に示しているし、芸能界という報道と隣接する業界に長くいた彼でこそ、指摘できたことだろう…。




すでに、Googleの終焉とともに、インテグレートの時代がやってくるという、必然を、私は指摘している。

時計の針をゆっくりにすることはできるかもしれぬが、逆に戻すことはできぬ。

今回の東国原知事が指摘したようなできごとが頻発すれば、この流れは一気に加速するかもしれない。






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Last updated  2007年04月18日 14時45分24秒
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