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カテゴリ:「テレビウォッチ」
日本のメジャー紙は、明治の自由民権運動期において、政府による言論の希釈のために作られた報道機関に端を発することはいうまでもない。 在野言論を希釈することが既存メディアの本来の目的であったが、その目的を隠蔽するために、在野言論の活躍の場にもなったことが、事を複雑にしている。 また、言論の場に在野言論を流通されることによって、言論のガス抜きを行なう効果も果してきた。 *
かの国はすでに、被害者を生んでしまった。 だから、被害者家族の心情に心を寄せれば、犯人の思いに心を寄せることはできぬ。 彼の言うように被害者なのかもしれぬが、それが、32人の死者・被害者を前にして是認できることではまったくない。 彼は、32人の屍を前にして被害者であると叫ぶ権利はない。そのことを彼は知っていたから、犯行後自殺したのである。 彼の死体をテレビは見せることなく、彼の高ぶった姿だけを見せる。これほど、被害者遺族にとって理不尽なことはない。 ☆ 日本社会がピストルによる大量殺人から無縁でないことは、長崎の事件が証明している。 だが、その一方で、かの国の惨劇から学ぶことはあるのではないか。 * かつて、「話せば分かる」と言って、殺された首相がいた。 彼のように、「話せば分かる」という理想を持ち続けることは、日本社会の構成員として、良識のひとつであると思えてならない。 勿論、彼が対話の努力をし続けたかどうかは分からぬし、それに不備があったために殺されたのかもしれぬ…。 ☆ 大量殺人犯が狂気の捉われ者でしかなくとも、それがNBCネットワークを通じて全米に放映されるならば、それがひとつの言論として成立してしまう。 人類史に残る発明家や芸術家のほとんどが、狂気をまとっていたという分析は珍しいことではない。 恐ろしいことだが、狂気とて、ひとつの言論であることは確かである。 そのようにひとつの言論と認識すれば、犯人が残した映像を使って、彼の言論ばかりを露出するテレビ局は著しくバランスを欠いている。 NBSはスクープ性という理由から放映したに違いないが、犯人の言論を放送することは、犯人の言論を追認することでしかない。 そして、それは、被害者の家族にとっては、悲痛なことである。 CNNは、「犯人は自分が犠牲者であると言っているが、殺された人たちが犠牲者でないとでもいうのだろうか」と、発言した犯行現場の教室で九死に一生を得た女子学生のインタビューを紹介していた。 被害者である学生たちには、インタビューに応える肉体をもはや持っていない。 にもかかわらず、加害者の言論ばかりが露出されるという理不尽は、あっていいことではない。 犯人の狂気の表情や、銃をまとった姿は、悪魔そのもので、事件がまだ続いているとの錯覚を視聴者にもたらす。 大学の学部長が犯人の映像を流さないで欲しいとCNNに懇願したことは、理解に値する。 ☆ 情報が映像として伝わるのか、文章・コメントとして伝わるのかで、その衝撃度は大きく変わってくる。 そして、多チャンネルの時代にあっても、CNNはプッシュ(受け手に選択の余地が低い)のメディアである。プル(受け手に選択の余地が高い)のメディアであるインターネットとは、性格を異にする。 悪性と狂気に満ちた映像を流す、アメリカのテレビのやり方を肯定はできぬだろう。 この映像を見た同胞たちが帰国を余儀なくされているのは、当然のことだろう…。 ☆ そもそも、犯人は、自分のブログで映像を公開するのではなく、三大ネットワークのひとつに映像・写真を送りつけた。 そこにこそ、アメリカにおいても、ブログにはオーソライズ力はないことを示している。 三大ネットワークにはオーソライズ力があり、それ以外は泡沫メディアでしかない。
CNNを観ていると、青年の疑問に答える対話者が、スタジオをはじめとして報道機関のどこにもいないことが奇妙に見えてくる。 そこには、伝達者や分析者や解説者はいるが、対話者はいない。 日本のニュースワイドのように、総合的な判断と無縁な感情的な言論を操る有名人がいるのもよくないが、そのような主観的主体がスタジオにいないというのも、また、不思議な風景である。 ☆ その構造は、まさに日本のブログの特徴と、アメリカのブログの特徴をもイメージさせてくれる…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年04月20日 11時09分34秒
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