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カテゴリ:「ウェブ2.0的であること」
ソーシャルメディアという言葉を知らなかった。
本著冒頭(p.12)に、主なソーシャルメディアという図が載っている。
ということらしい。 ☆ 思えば、最近のITジャーナリズムの注目先の流れをおおまかに振り返ると次のようになる。 ヤフー(ポータル)→グーグル→ミクシィ→ユーチューブ→セカンドライフ その方向の中で、グーグルを視野に入れながらも、グーグルそのものを論じようとせず、あえて、ソーシャルメディアという概念を提出したことは意味があると考える。 ☆ 湯川氏の提出するソーシャルメディアは、ほとんどCGMに近いだろう。 ただ、CGMというような大衆を相手にしたメディアではなく、分衆という言葉に形容されるようなユーザー対象が限定されるメディアを意図したのだろう。 湯川氏が感じているインターネットの流れに、私も極めて同意する。 ただ、CGMは、Consumer Generated Medaiの略だというが、その言葉の通り消費者(Consumer)は、メディアプロデューサーという運転者によって操縦される自動車のモーター(Generater)にすぎない。 そして、ソシアルが気になっている彼の感覚は私のものに近い。
ユーザーをマスと一からげに捉えることは大雑把だ。 だから、ソシアルというソサエティーを設定する。 マスは烏合の衆のように感じられるが、ソサエティーならば、自律的であり、対話も可能…。 ただ、ソシアルなソサエティーもSNSのプライド(求心力・選民意識)の結果にすぎぬ。 そのように、ソシアルさえもSNSに過ぎぬと諦観したとき、私たちは、そのようなコミュニティーの寿命が、極めて短いことにも気づかなければならぬ。 * 思えば、湯川氏の「ネットは新聞を殺すのか」のブログのコメント欄で成立したコミュニティーがどれほどの期間成立していたのだろうか。 私はあのとき、彼に、「湯川さんは渋谷のハチ公なんだから、しゃべっちゃだめ。みんなが集まる目印にあなたがいるのであって、あなたが喋りだしたら、みんながびっくりして、ハチ公前広場から人がいなくなっちゃう」と言った。 私がそのような非礼なことを彼に言ったのは、彼が、メディア人・ネット者の双方にとってのミーティングポイントとしての価値を持っていたからである。 そういう彼への存在への尊敬があったから、あえて「ハチ公」などという喩えを出したのである。 勿論、「銀の鈴」でも、「動輪」でも、「パンダ」でも、「モアイ像」でもよかった。たが、それらの中で、彼の存在は、けっして「モアイ像」ではなく、「ハチ公」であり、その存在は輝いている。 だが、そういう私の忠告によって、湯川氏がブログにおけるコミュニティーを堪能できなかったのだとしたら、私は反省せざるをえない…。 * 極めて濃密なコミュニティーの場合、その寿命は長くても3ヶ月だろう。そのコミュニティーが延命する場合は、何らかの「燃料投下」が行なわれた場合である。 「燃料投下」は、ほとんど2ちゃんねる用語だろうが、コミュニティーに新たなる話題を提供することにより、コミュニティーの活性化を目論むことである。 Consumer Generated Mediaに、Fiel Injection(燃料投下)。なんとも、分かりやすい。 ☆ 私が、このところ、グーグルについて指摘している。
それらを要約すると次のようになる。 ☆
☆ 私がその考察に至ったマーケットの法則を羅列すると以下になる。
ならば、時代の必然として、次のようなことが起こる。
☆ 反証でしかないが、ユーザー(市民記者)同士のコミュティーがなく、運営における透明性を保持できなかったCGMのJANJAN、ライブドアPJ、オーマイニュース日本版は、低迷している。 とすれば、湯川氏が提出するソーシャルメディアたちも、進化の過程によって、その運営に対する不満が募り、CGMから、COMという変化を来たしてくるに違いない。 * 勿論、民主主義同様、直接制をとるか、代議制をとるかという問題は残る。 しかし、そのような場合にあっても、運営における透明性がメディアの正否に不可欠な要素であることは変わりない。 ☆ ビジネス界の大きなトレンドでは、雪印・不ニ屋などの生産者都合型経営が腐敗し、消費者利益最優先が推奨される経営形態となっている。 * 自由な市場では、その評価軸において、企業の自然淘汰が行なわれている。 雪印が解散・再構成に追い込まれ、不ニ屋が長期休業に追い込まれるとともに経営者が交代したのは、その一例である。 * 一方、寡占な市場では、その市場そのものがシュリンク(収縮)している。 日本プロ野球が低調なのは、寡占状態なので、球団都合優先型経営が自然淘汰されていかぬことである。 Jリーグサッカーは、オープンなので、チーム経営優先型経営では立ち行かぬ。浦和型経営・新潟型経営・甲府型経営など、ファン(消費者)優先のさまざまなスタイルが成立している。 * 究極の寡占市場といえる、地上波テレビの荒廃はひどい。 民放局社員の生涯年収平均は、2位の業界の倍以上だという。 広告代理店とともに作り上げてきた、そのような利益構造の歪みだけではない。 商品ともいえる番組の荒廃は、「あるある…」だけではない。 20年ほど前ならば、土曜の午後や日曜日の午後は、スポーツ中継を楽しんだものである。だが、いまその時間帯は、番組宣伝のために多くが使われている…。 …そして、地デジである。 地デジがライトワンス(録画は一回だけ)になることで、かなりの混乱が予想されるようだ。 地デジの特徴は解像度だというが、そもそも視聴者は解像度を見分けることができない。 そういえば私にも思いあたるふしがある。水戸黄門がフィルムからビデオになったことに私は違和感を感じたが、それを感じぬ人も多い。 私は映像の作り手の一人であるから、そのような感覚を持っているが、消費者(視聴者)とはそのようなものだろう。 ☆ クリエイティブを発揮するソーシャルメディアの圧勝を予想して、グーグルは、その市場に参入しない。と湯川氏は著作をしめくくっている。 私は、ソーシャルメディアがグーグルに圧勝することは同意するとしても、その理由が敗北予想という分析には、異を唱える。 何故、グーグルがソーシャルメディアと同じ土俵に経ってゲームを開始できないかといえば、グーグルの最大の弱点であるクローズド・アルゴリズムを払拭しきれぬ限り、ソーシャルメディアとの戦いに出陣することは、「戦う前の死」を意味するからだ。 * 今はまだ、ソーシャルメディアは、メディアプロバイダー主導でしかないが、早晩、コンシューマー主導に変化する。 そのような時代がやってきたとき、コンシューマーの興味が、グーグルの根幹であるアルゴリズムに集まることは必至である。 そのとき、グーグルは、いままでクローズドだったアルゴリズムの仕組みをオープンにしなければならない。 だが、公共性を奉じてやってきたグーグルといえども、私観・利己的なアルゴリズムが一切存在しないはずなどない。 巨大な集合知としてのアルゴリズムである。その微視的な場所に、バグ的・論理矛盾的な合理性をかく恣意的なアルゴリズムが存在することは明らかだろう。 ならば、グーグルは、企業存亡に関わる批判をさけるために、アルゴリズムをクローズドさせたまま、屍になるしかない。
グーグルは、クローズド・アルゴリズム検索エンジンの金字塔として、屍となっていく運命の選択肢しかない…。 ☆ 「爆発するソーシャルメディア」という湯川氏に、「それらの分析とオープンソースの流れはどのように関わっていくのですか」と、私は、彼に聞いてみたくなった。 時事通信社ビルの下のスターバックスで久しぶりに、彼にキャラメルマキアートのラージを奢ってもらうことにしようか…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年04月23日 10時22分49秒
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