375563 ランダム
 HOME | DIARY | PROFILE 【フォローする】 【ログイン】

アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

【毎日開催】
15記事にいいね!で1ポイント
10秒滞在
いいね! --/--
おめでとうございます!
ミッションを達成しました。
※「ポイントを獲得する」ボタンを押すと広告が表示されます。
x

PR

Freepage List

Category

Keyword Search

▼キーワード検索

Profile

スポンタ

スポンタ

Calendar

Favorite Blog

まだ登録されていません

Comments

コメントに書き込みはありません。

Headline News

2007年04月23日
XML
ソーシャルメディアという言葉を知らなかった。

本著冒頭(p.12)に、主なソーシャルメディアという図が載っている。


【主なソーシャルメディア】

・SNS (ミクシィ・マイスペース)

・ブログ
・ユーチューブ(動画共有)
・フリッカー(写真共有)
・ティッグ・ニュー(ソーシャルニュース)
・デレシャス・はてなブックマーク(ソーシャルブックマーク)
・教えてgoo・ヤフー知恵袋(Q&Aコミュニティー)
・価格.com・ECナビ・@コスメ(口コミサイト)


ということらしい。



思えば、最近のITジャーナリズムの注目先の流れをおおまかに振り返ると次のようになる。

ヤフー(ポータル)→グーグル→ミクシィ→ユーチューブ→セカンドライフ

その方向の中で、グーグルを視野に入れながらも、グーグルそのものを論じようとせず、あえて、ソーシャルメディアという概念を提出したことは意味があると考える。



湯川氏の提出するソーシャルメディアは、ほとんどCGMに近いだろう。

ただ、CGMというような大衆を相手にしたメディアではなく、分衆という言葉に形容されるようなユーザー対象が限定されるメディアを意図したのだろう。

湯川氏が感じているインターネットの流れに、私も極めて同意する。

ただ、CGMは、Consumer Generated Medaiの略だというが、その言葉の通り消費者(Consumer)は、メディアプロデューサーという運転者によって操縦される自動車のモーター(Generater)にすぎない。

そして、ソシアルが気になっている彼の感覚は私のものに近い。

マス ⊃ ソシアル ⊃ SNS


ユーザーをマスと一からげに捉えることは大雑把だ。

だから、ソシアルというソサエティーを設定する。
マスは烏合の衆のように感じられるが、ソサエティーならば、自律的であり、対話も可能…。

ただ、ソシアルなソサエティーもSNSのプライド(求心力・選民意識)の結果にすぎぬ。

そのように、ソシアルさえもSNSに過ぎぬと諦観したとき、私たちは、そのようなコミュニティーの寿命が、極めて短いことにも気づかなければならぬ。

*

思えば、湯川氏の「ネットは新聞を殺すのか」のブログのコメント欄で成立したコミュニティーがどれほどの期間成立していたのだろうか。

私はあのとき、彼に、「湯川さんは渋谷のハチ公なんだから、しゃべっちゃだめ。みんなが集まる目印にあなたがいるのであって、あなたが喋りだしたら、みんながびっくりして、ハチ公前広場から人がいなくなっちゃう」と言った。

私がそのような非礼なことを彼に言ったのは、彼が、メディア人・ネット者の双方にとってのミーティングポイントとしての価値を持っていたからである。
そういう彼への存在への尊敬があったから、あえて「ハチ公」などという喩えを出したのである。

勿論、「銀の鈴」でも、「動輪」でも、「パンダ」でも、「モアイ像」でもよかった。たが、それらの中で、彼の存在は、けっして「モアイ像」ではなく、「ハチ公」であり、その存在は輝いている。

だが、そういう私の忠告によって、湯川氏がブログにおけるコミュニティーを堪能できなかったのだとしたら、私は反省せざるをえない…。

*

極めて濃密なコミュニティーの場合、その寿命は長くても3ヶ月だろう。そのコミュニティーが延命する場合は、何らかの「燃料投下」が行なわれた場合である。

「燃料投下」は、ほとんど2ちゃんねる用語だろうが、コミュニティーに新たなる話題を提供することにより、コミュニティーの活性化を目論むことである。

Consumer Generated Mediaに、Fiel Injection(燃料投下)。なんとも、分かりやすい。



私が、このところ、グーグルについて指摘している。


Googleの本質は、Best5 by Quantityのリストを作ることでしかない。


ジャーナリズム2.0:Googleの次にくるものは、新しいジャーナリズムである。


GooGleの次に来るもの:佐々木俊尚氏が指摘するような「特定の主体がトップ5リストを提出する時代」はこない。


グーグルの終焉:オープン・アルゴリズムの時代。



それらを要約すると次のようになる。



グーグルは、Top5 by Quantity メイカーに過ぎない。

グーグルの弱点は、クローズド・アルゴリズム・ロボット検索であること。

グーグルは、将来登場するであろう、オープン・アルゴリズム・ハイブリッド(ヒューマン&ロボット)検索に勝つことができぬ。







私がその考察に至ったマーケットの法則を羅列すると以下になる。




・量の時代は、質の時代へと変化する。


・消費者が質を求めるトレンドの中で、大衆から分衆(多様な質の評価軸)、個へと、大衆の把握単位(消費者コミュニティーのサイズ)が小さくなっていく。


・定食型メニュー(社員食堂)から、アラカルトメニュー(お好み食堂)へ。そして、カフェテリア形式(オカズ単位で選べる)へ。


・サービス提供型(大工)から、ツール提供型(Do It Yourself)の時代へ。


・パッケージ提供からサービス提供へ。そして、ソリューション(パッケージ+サービス)へ。


・その中で行なわれる、パッケージ&サービスのモジュール(最小成立単位)提供。


・フリーソフトや、リナックスOSに代表されるオープンソースの流れ。


・クライアント&サーバー型から、P2P型への流れ。


・メディア型から、P2P型への流れ。


*

【ビジネス界】

・大量生産から、小ロット多品種生産へ。(SNSをイメージ)

・生産者都合の商品開発から、消費者のための商品開発へ。(所謂CGMをイメージ)

・企業経営に求められる透明性。(オープンソースをイメージ)




ならば、時代の必然として、次のようなことが起こる。

「CGMは、Consumer Generated Mediaの意味である。

今後は、それが、オープンソース的な流れの中で、Consumer Organized ( or Oriented ) Mediaと変化していく。




反証でしかないが、ユーザー(市民記者)同士のコミュティーがなく、運営における透明性を保持できなかったCGMのJANJAN、ライブドアPJ、オーマイニュース日本版は、低迷している。

とすれば、湯川氏が提出するソーシャルメディアたちも、進化の過程によって、その運営に対する不満が募り、CGMから、COMという変化を来たしてくるに違いない。

*

勿論、民主主義同様、直接制をとるか、代議制をとるかという問題は残る。
しかし、そのような場合にあっても、運営における透明性がメディアの正否に不可欠な要素であることは変わりない。



ビジネス界の大きなトレンドでは、雪印・不ニ屋などの生産者都合型経営が腐敗し、消費者利益最優先が推奨される経営形態となっている。

*

自由な市場では、その評価軸において、企業の自然淘汰が行なわれている。

雪印が解散・再構成に追い込まれ、不ニ屋が長期休業に追い込まれるとともに経営者が交代したのは、その一例である。

*

一方、寡占な市場では、その市場そのものがシュリンク(収縮)している。

日本プロ野球が低調なのは、寡占状態なので、球団都合優先型経営が自然淘汰されていかぬことである。
Jリーグサッカーは、オープンなので、チーム経営優先型経営では立ち行かぬ。浦和型経営・新潟型経営・甲府型経営など、ファン(消費者)優先のさまざまなスタイルが成立している。

*

究極の寡占市場といえる、地上波テレビの荒廃はひどい。

民放局社員の生涯年収平均は、2位の業界の倍以上だという。
広告代理店とともに作り上げてきた、そのような利益構造の歪みだけではない。

商品ともいえる番組の荒廃は、「あるある…」だけではない。
20年ほど前ならば、土曜の午後や日曜日の午後は、スポーツ中継を楽しんだものである。だが、いまその時間帯は、番組宣伝のために多くが使われている…。

…そして、地デジである。

地デジがライトワンス(録画は一回だけ)になることで、かなりの混乱が予想されるようだ。
地デジの特徴は解像度だというが、そもそも視聴者は解像度を見分けることができない。

そういえば私にも思いあたるふしがある。水戸黄門がフィルムからビデオになったことに私は違和感を感じたが、それを感じぬ人も多い。
私は映像の作り手の一人であるから、そのような感覚を持っているが、消費者(視聴者)とはそのようなものだろう。





クリエイティブを発揮するソーシャルメディアの圧勝を予想して、グーグルは、その市場に参入しない。と湯川氏は著作をしめくくっている。

私は、ソーシャルメディアがグーグルに圧勝することは同意するとしても、その理由が敗北予想という分析には、異を唱える。

何故、グーグルがソーシャルメディアと同じ土俵に経ってゲームを開始できないかといえば、グーグルの最大の弱点であるクローズド・アルゴリズムを払拭しきれぬ限り、ソーシャルメディアとの戦いに出陣することは、「戦う前の死」を意味するからだ。

*

今はまだ、ソーシャルメディアは、メディアプロバイダー主導でしかないが、早晩、コンシューマー主導に変化する。

そのような時代がやってきたとき、コンシューマーの興味が、グーグルの根幹であるアルゴリズムに集まることは必至である。

そのとき、グーグルは、いままでクローズドだったアルゴリズムの仕組みをオープンにしなければならない。
だが、公共性を奉じてやってきたグーグルといえども、私観・利己的なアルゴリズムが一切存在しないはずなどない。

巨大な集合知としてのアルゴリズムである。その微視的な場所に、バグ的・論理矛盾的な合理性をかく恣意的なアルゴリズムが存在することは明らかだろう。

ならば、グーグルは、企業存亡に関わる批判をさけるために、アルゴリズムをクローズドさせたまま、屍になるしかない。

つまり、グーグルには、グーグル2.0はありえない。

ならば、すでに「死に体」である。


グーグルは、クローズド・アルゴリズム検索エンジンの金字塔として、屍となっていく運命の選択肢しかない…。



「爆発するソーシャルメディア」という湯川氏に、「それらの分析とオープンソースの流れはどのように関わっていくのですか」と、私は、彼に聞いてみたくなった。

時事通信社ビルの下のスターバックスで久しぶりに、彼にキャラメルマキアートのラージを奢ってもらうことにしようか…。


07sponta






お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう

Last updated  2007年04月23日 10時22分49秒
[「ウェブ2.0的であること」] カテゴリの最新記事



© Rakuten Group, Inc.