まず、ネット上に本当にコミュニティーが広がっているのか。ということを考えてみて欲しい。
私には、コミュニティーが広がっているのではなく、島宇宙が乱立し、ネットが孤立感を深めているとしか感じられない…。 |
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湯川氏は、「爆発するソーシャルメディア」という本で、ソーシャルメディアたちがグーグルに圧勝すると力説されている。
だが、現実を見て欲しい。
・「ブログはすでに終わった」と言明する極東ブログ氏。早々とブログを撤退したR30氏。ガ島氏は、コメント欄を開けず、TBを認証制にする。
・若槻千夏は、コメント欄を閉じる…。
・ブログスフィアは、女子大生ブロガーなるバイラルマーケッティングを野放しにし、オープンソースを牽引するアルファブロガー氏も言論者のふりをしながら、実は、アフィリエイト目当てのバイラルなエントリーを連発し、15万円/月を稼ぐという。
・YouTubeは、著作権の問題で既存メディアとの間の抗争が激しい。
・ミキシィも、普及すればするほど、いままで内側と感じられたものが外側に感じられ、ユーザーが感じる安心感は薄れている。
・はてなブックマークは、セルフブックマークという自作自演が問題になる。
・価格ドットコムの感想欄は、企業が雇い入れたサクラが記事を書く。
・ウィキペディアでは、当事者から事実と違う内容が書かれているとのクレームがあり、削除・変更を巡って摩擦があり、問題になっている。
・教えてgooにしても、質問者の「映画監督とはどのような職業ですか?」との問いに、「中小企業の社長さんのようなものです」という答えがあったのを憶えている。映像業界にいる私としては、その言葉が本質を捉えていると苦笑するが、それが、映画監督の実際を知らぬ人にとってのアドバイスになるとは思えない。
・また、音楽の授業の第一回で何をするかとの真摯な問いかけに対して、ジョン・ケージの演奏者が何もしない曲「4分33秒」を演じたらどうか。というのがあった。ジョン・ケージの音楽は、コンサートという額縁があって成立するものであり、そのようなものが教室で再現できるはずもなく、起きるのは、教室崩壊でしかない。私は、議論が禁じられている「教えてgoo」で反論に及んだ…。 |
それらは、悩めるCGMの姿であり、過渡的なソーシャルコミュニティーの姿である。
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メディアとしてのコミュニティーは、そのような呻き声を上げているが、その中で営まれている実際のコミュニティーはさらに厳しい。
ブログでは、ブログの主は管理人と呼ばれ、コメント欄でコミュニケーションがなされ、コミュニティーが開かれる。
だが、コメント欄でのコミュニケーションは、コミュニティー的だが、コミュニティーではない。何故なら、基本的に管理人to閲覧者の間で行なわれ、閲覧者同志のコミュニケーションは、横レス(第三者の口出し)という批判を受けるからだ。
SNSのコミュニティーでも、コミュニティーの話題以外の話をすることはタブーである。
そして、これが一番恐ろしいことだが、コミュニティーのテーマに対する疑問・反論は決して許されない。
結果、コミュニティーの中は、アイランド化してしまい、カルト教団の内部と形容されてもおかしくない状況になる。
そして、そのコミュニティーの教祖たる管理人に、実力(威光・運営能力)がなければ、コミュニティーは1ヶ月を待たずに終焉する。 |
コミュニティーが1ヶ月以上つづく場合は、管理人がリアルな権威を持っていて、参加者たちがひれ伏すことに満足感を感じる場合。
もしくは、管理人が権威を振舞うことをせず、自由に言論を露出することを許した場合である。
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私が、管理人は、渋谷のハチ公が理想である。というのは、まさにその典型。
管理人は、ランドマークであり、そこに集まった人たちを拘束しない。
そこにこそ、言論の自由の素地がある。
・言論の自由の場の確立。
・自律的な個。
・対立する言論たちの対照。
・対立した言論をアウフヘーベンすること。 |
めざさなければならぬものは多いのである。