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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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2007年04月29日
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日本の民主主義が選挙という匿名システムで成り立っていることを理解して欲しい。

永田町が、記名システムによる投票で、永田町の論理に陥り、民意を反映しない議決機関になっていることに気づいて欲しい。

匿名による投書を卑劣だと断ずる人がいるが、情報源の秘匿を厳守する第三者(オーソライザ)が不在なだけであって、匿名であることだけが問題ではない。

※そのようなバッファとしての価値がある限り、今後も報道機関は存続できるかもしれぬ。

そもそも、匿名であることが批判されるのは、その言論の批判の的になる当事者だけであって、匿名であろうがなかろうが、言論自体の重要度は変わらないはずである。

そして、もし、言論者の価値によって、言論の価値が変化するならば、それはゴシップという名の大衆の好奇心に応えるセンセーショナルな言論でしかでしかない。



とても分かりやすいケースがネット市民記者新聞・JANJANに掲載されている。

怪文書で離島 座間味の“Dr.コトー”(1)



市民記者が、Dr.コトーと形容していることからみれば、記事の主は、誠実・洗練潔白・正義の味方な医師であり、なんら恥じることはない。

一方、怪文書を書いた人間は、卑劣漢であり、匿名でなければ論じることのできない臆病者だということになる。

送りつけられた封筒の写真を公開するとは、その効果を狙ってのことだろう。
だが、一方の当事者である医師も顔を見せることはない。

私はその事実に、市民記者の心のどこかに後ろめたさがあったのではないかと、邪推する。

そして、思う。

…そのような単純な話なのか。



仔細は知らぬが、たとえ首長や議員たちが不正を行なっているとしても、民主主義で選ばれたものたちなのだから、民主主義手続きで解任されるべきで、一介の医師が影響力を及ぼすべきことではない。


*

南の島の千人余のコミュニティーに存在しつづなければならぬ住民が、自らの言論によって、家族や友人・知人たちをコミュニティーの異分子として迫害される危険に陥れる可能性を否定できぬならば、匿名で論じることも致し方ないことである。

一方、この島唯一の医師はどうだろうか…。

彼は、私財のすべてをなげうってこの島にやってきたのではない。公務員ということだから、上司の命令によって、たまたまこの島にやってきた。いうなれば旅人である。
そのようなこの地域に対するステークホルダーを一切持たぬ者の言論は、島民たちの一般的なものと乖離しているのは当然のことである。

たしかに、彼は、医師であるとともに、当地の住民でもあった。
だが、彼は、住民の一人として振舞っていたのだろうか…。
この記事から察するに、島唯一の医師としての立場を背景に、首長や、その周囲に影響力を発していたに違いない。

言論の自由などというが、彼は眼に見えぬ権力を背景にしており、そこでは、言論の自由が制限されるのは、当然である。



さまざまな問題を孕みつつも、日本社会は「言論の自由」が成立しているといえるだろう。

だが、個(言論の主体)において「言論の自由」が確立されているかといえば、それは疑わしい。否、はっきり言って、Noである。


すべての会社員は、公の立場で、自社を批判する言論の自由はない。
もし、そのようなことをすれば、職場を奪われることになる。

すべての言論人は、過去の自分の言論を批判する自由はない。
もし、そのようなことをすれば、整合性・統一性を欠く言論者として信頼されなくなる。そして、過去の言論を扱う出版社などのメディアから総スカンを食らうに違いない。

*

そのような個の事情によって、拵えられた言論空間は、極めてエキセントリックであり、当事者しかいないヒステリックなものであるともいえる。

そのようなステークホルダー(自利益追求者)しか存在しない言論空間では、有効な結論は生まれてこない。
なぜなら、ステークホルダーたちに妥協する自由の裁量度はなきに等しいから、結果、ステークホルダーのぶつけ合いで終わってしまうのだ。

*

しかし、個が匿名を纏うならば、状況は一変する。

個は、自らの属性から発生するステークホルダに縛られることもなく、過去の言論の奴隷となることもない。

対話・議論の対話の変化にしたがって、自らを自由に翻すことができる。


そこには、朝令暮改などという言論とは関係なく言論の発言者を責めるような不毛は存在できぬ。

そもそも、個の固有の文脈を提示することは、自分と他者を分けようとする企てなのである。


・言論に責任を求める行為は、敗北主義である。

そして、多くの場合、責任などとれぬのだから、不毛である。


・言論には合理と誠実をこそ、求めるべきである。




自分と他人を分けようとする意識は最終的にコミュニティーを分断に結びついていく。
そのような存在が、コミュニティーの安逸にとって、いいはずはない。

南の島の医師が、コミュニティーの合意である首長に背を向けた言論を発するならば、それはコミュニティーを分断に結び付けていく。

彼がいかなる正義を主張したとしても、その正義は、彼という固有の文脈のうえでのローカルルール&モラルでしかない。

それが南の島のネイティブと対立するのは当然のこと。

首長にしても、議員にしても、それぞれが個のローカルルール&モラルと妥協しながら、活動してきたに違いない。でなければ、小さなコミュニティーでは異分子に成り果てる。

だが、そのようなこの内面を感じることのできぬ旅人は、個の文脈でしかないものを正義として、斬りつける。

個の価値観を背景にした正義と、島民の集合的無意識を背景にした現状と、どちらに軍配があがるかといえば、それは自明なことだろう。

勿論、過渡的にはさまざまな問題があるだろう。だが、それが異分子によって拭い去られるというのは、島民たちの将来を考えれば、よいこととは思えない。



今回、当該医師がした勘違い(自らの影響力の濫用)は、任地替えという上部機関の措置で、訂正される。

だが、今回、市民記者が犯した過ちは漂うだけで、気まずさを誘発するだけ。
いまの社会的雰囲気では、その卑劣さが指摘されることはない。

そして、表面的に記事に接する人たちは、「南の島の人たちは、ムラの論理に縛られ、野蛮人」などと思い込んで終わる。

…こんな悲しいことはない。

07sponta






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Last updated  2007年04月29日 06時57分16秒
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