|
カテゴリ:「ジャーナリズム関連(既存・市民)」
日本新聞労働組合連合のパネルディスカッションに参加することになっている。
私は新聞の消費者として参加するつもりだ。 と、すると、私以外の登壇者は報道出版界の方だし、会場の参加者も全員、新聞人。 ならば、四面楚歌ということになるのか…。 ☆ 否、そうではない。
☆ たとえば、佐々木俊尚氏は次のような経験をしたという。
これをして、毎日新聞が死んでいると考えてはいけない。 池田氏が間違っていることを言っていると断じてはいけない。 池田氏は、毎日新聞の利益を守るために、苦しいディベートをしているだけであって、彼を批判してはいけない。 彼の辛さにこそ、私たちは心を寄せるべきだ。 池田氏が批判されるなら、この佐々木氏へのコメントに対してではなく、このような言論を発せざるを得ない社内の状況を打開・克服・カイゼンしようしない場合である。 もし、ここで、池田氏が佐々木氏の言説にうなずいたたらば、その時点で池田氏は毎日新聞の組織人ではなくなる。 そのようにして起こるのは、池田氏の組織からの離脱であり、それはトカゲの尻尾きりであり、組織のカイゼンには結びついていかぬ。 このインタビュー記事は、池田氏は組織に忠実・誠実であることしか、表現していない。 そもそも、このような質問が、不毛だったのである。 * 「あなたが一人の読者として、あの記事を読んだとしたらどう思いますか?」「男性ではなく、男とかかれていたら、記者がどのような感情を持って記事が書かれたと感じますか?」と、佐々木氏が池田氏に問いかけていたらどうだろうか。 一人の読者として、と聞かれれば、なかなかディベートの奴隷でありつづけることは難しい。そして、ステークホルダーを離れたとき、いかに自分が奇異な読者であることが意識されるだろう。 そして、佐々木氏がそのような問いかけをしたなら、池田氏は、沈黙せざるをえなかったのではないか…。 否、そのような質問をしたとしても、キャリアを積んでいる新聞人なら、巧妙に論点をずらして行ったに違いない。 どちらにしても、このインタビューは、審判員不在のディベートでしかなく、何物も生み出すことはない。 ☆ 西欧文明・西欧史・唯物史観的な価値観の変遷として、絶対主義・社会主義・共産主義・市場主義・自由主義などというストーリーが無批判に語られている。 そこでは、利己的・利他的などということに注目が集まるようだ。 ある経済学者は、「経済学には利他的という概念がない。だから、「冬のソナタ」の利他愛に感動する」と言う。 京セラの稲盛氏は、利己的にならずに、お客様重視の経営を貫いてきたと自負している。 曰く、利他的な経営をしていると…。 * だが、待って欲しい。 お客様などというのは、特定の他者であり、特定の他者の利益を求めることは利己的な行為でしかない。 ならば、問題は自他の境界領域をどこに求めるか。そこにしかない。
* 思えば、経済学者は、「見えざる手」・市場主義などというが、ほんとうにそんな物だけで、世の中が動いてきたのだろうか。 ご存知のように、世界恐慌では「見えざる手」によって、全世界が窮地に陥った。当時、アメリカに集まった利己的な意図が世界を破滅に導いたといえる。 似たようなことが、日本の1990年代に起きた。バブル経済の崩壊である。 だが、本当に世の中のすべての人が痛手を負ったのだろうか。 利益を貪ることを望んだ経営者たちは大きな痛手を負ったが、本業重視を貫いたいくつもの企業たちは無傷であった。そのことを想起すれば、世界恐慌のときは、株式市場が未熟であり、健全な経営者も投機的な投資家も一蓮托生で大きな痛手を負うことになったに過ぎないのではないか…。 勿論、そのような急激な変化に巻き込まれて被害を蒙った人も多い。 私は当時、給与生活者であり、バブルの恩恵は一切受けなかったし、その波に乗りもしなかった。だが、バブル崩壊の波は大きく受けた。その仔細は明らかにしないが、カミサンならば理解してくれるに違いない。
* 啓蒙主義以降の西欧の学問では、「我思う。故に我あり」と、近代的自我を謳う。 その起源・価値観から諸学問が発展していくなら、どのような学問においても、個の論理に捉われた世界観が展開される他ない。 かつて、ソ連では政治や世の中のしくみの部分だけで社会主義が実行されたのではない。文化・学問・言論においても、そこではプロレタリア文学・プロレタリア芸術・マルクス経済学が主流となっていた。 だが、それらが極めて主観的・恣意的な文化であったことを、ベルリンの壁が崩壊した1989年以降の私たちは気づくことができる。 いまだにソ連がもたらした幻想・妄想を抱くことは不毛である。だが、それが、西欧の恣意的な文化に身をゆだねている日本の文化・言論の有様を肯定するものではないことを、私たち日本人は認識しなければならない。 ☆
自分たちのテリトリーにいる全ての獲物を狩猟し尽くせば、獲物は自己増殖することができず、狩猟者は獲物を失い、獲物と同様に死滅せずをえない。 だが、獲物たちが自己増殖できる程度の数を残しつつ狩猟していけば、獲物を継続して得ることができる…。 * 今、手の中にあるものを全部食べてしまえば、明日食べるものがなくなる。 だから、貪らない。 それが、「縄文の消費者の論理」である。 それは、個においてもそうだし、集団においてもそうだ。 集団内の競争がいかにあろうとも、集団全体を死滅させるような乱獲はけっして行なわれない。 それが縄文時代である。 * 右左という分かりやすい論理軸がなくなったので、統制経済・自由経済・新自由主義などというビミョーな語句が流行っているが、要は、いかに「縄文の消費者」であるか。 そして、そのときの個の領域を最大限に拡大できるか。 ということに他ならない。 ☆ たとえば、トラック業界の構造不況がある。バス業界の不況がある。 宅配便の料金が安いにこしたことはない。旅客バスの料金が安いにこしたことはない。 だが、それにより、当該従事者たちが悲惨な生活をし、消費者である社会にも悲惨な交通事故を起こすならば、法外な安価は要求しないだろう。 勿論、業界の努力があっての上での話。 業界の情報透明度が低く、消費者の納得を得ることができぬならば、現状も仕方ないこと…。 * マスコミを追求する消費者も同様だ。 メディアにはメディアの都合があることは分かっている。 だから、読売新聞グループのスポーツ報知を読んでいて、あからさまな巨人軍擁護論があっても、仕方ないことだと許すのである。 ☆ 「縄文の消費者」の時代はすでに来ている。 問題は、その領域をどこまで拡大するかである。 その意味では、稲盛氏の大いなる誤解も過渡的な意味では極めて価値があるといえる。 もっとも、「利他的であれ」などと、自らを誇らねば。という限定においてはあるが…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年05月01日 10時37分48秒
[「ジャーナリズム関連(既存・市民)」] カテゴリの最新記事
|