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カテゴリ:「ジャーナリズム関連(既存・市民)」
サンケイ・エクスプレスを読んでいる。
2007.05.02の29面のメジャーリーグというコラムには、「取材でおぼれるな」名記者の教え。というのがあった。 記事の内容は、先日、交通事故で亡くなったデビッド・ハルバースタム氏という世界的なジャーナリストの日本滞在中のエピソード・彼が産経新聞の記者である筆者に送った言葉である。 以下、引用。
筆者は、ハルバースタムの詩的な文体で紡がれている著作を紹介し、アメリカの多くのスポーツ記者のお手本になったと絶賛している。 ☆ …そうか。 と、はたと気づく私。
☆ オーマイニュース日本版がスタートすることを知ったのは、有名ジャーナリストである鳥越俊太郎氏が編集長に就任することが決まったニュースからである。 その頃の私は、鳥越氏とのメイルのやりとりも始まり、市民参加型ジャーナリズムについて、建設的な対話をしようとワクワクしていたのだが、ひとつの気がかりがあった。 それは、鳥越氏が、自らを「ニュースの職人」と誇って憚らないからだ。 * 私は思う。 ニュースとジャーナリズムは違う。 彼の言説から、「ニュースの職人」の内容を憶測するに、それは、以下のものに直結する職業的スキルではないかと思えてきた。
彼は市民記者たちに、「喜怒哀楽驚恐」で記事を書けと言い続ける。 私は、私なりに文章修行をしてきたつもりであるが、そこで一貫しているのは、筆者が感情的になるのはよくないということ。 感情的になるのは、読者であって、筆者は冷静に淡々と語るべきであって、自らの感情の盛り上がりで、読者の感情を削いではならぬのである。 それは、すべての表現の現場での常識でもある。 喜劇役者が舞台で笑ってはならぬし、指揮者・バーンスタインは、舞台で感動する演者は3流と言って憚らない。 * 鳥越編集長と、市民参加型ジャーナリズムについて対話しつづけるならば、そのことを指摘せずにはいられない。 鳥越氏から公開討論をしようとの提案もあった。だが、あまりにネットを知らぬ彼と公開討論をすることは、彼を血祭りにすることにしかならず、それがこれから始まる新しいメディアに打撃を与えかねない。 私は、公開討論の開催を避けることを提案する。それに彼も同意する。 私は、そのようにオーマイニュース日本版の成功をかげながら祈ったのであるが、その後に開催された早稲田大学でのシンポジウムで、鳥越氏は「ネットに関する無知」を無残にも晒すことになった…。 彼らとの言論の乖離に絶望した私は、参加することはなかった。 ☆
☆ そのように鳴り物入りでスタートしたオーマイニュース日本版だったが、鳴かず飛ばずである。 鳥越氏は、テレビ出演と健康の問題で注力できない。 ナンバー2である副編集長氏も、「物語をつくる」自分を誇っている。 そして、軌道修正のためにアドバイスを求められたであろう佐々木俊尚氏も、そのようなルサンチマン(憎悪・嫉み)な言論を批判するにつき、「左翼的過ぎる」という極めてイデオロギッシュな指摘を繰り返す…。 * 「スクープ」「センセーショナリズム」「読者の感情を煽る」。そんなことを目論んでいたら、言論が左翼的・リベラル・革新的になるのは当然である。 石原慎太郎東京都知事が言うように、よいものを残すのが保守であり、悪いものを直すのが革新である。 内省的・冷静に現実を見つめることが肝要であり、保守・革新、右・左という価値観はすでに不毛化している。 小泉元首相は保守政党にいるが、旧守派でないことは言うまでもない。 ☆ ハルバースタムは、「物語をつくるな」「感情に溺れるな」「対象から距離をおけ」と言う。 そこにこそ、あるべき記者の姿がある。そして、それは高邁な理想ではなく、日本中の多くの記者が日々実践しているのだと思う。 * そして、私はハルバースタムの言葉を当然のこととして、そこから先を、鳥越氏と語り合いたかった。
悲しいことであるが、ハルバースタムの言葉を至言とも思わぬ人たちに、私は話す言葉はない…。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2007年05月03日 15時52分10秒
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