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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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2007年05月05日
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マクルーハン「メディアの法則」(NTT出版)の訳者(中澤豊氏)あとがきから引用する。

マクルーハンは、演繹とか機能といった論理学の用語は避け、「概念(コンセプト)から知覚内容(パーセプト)へ」という彼らしい表現で、抽象的な「思惟」よりも、「観察」の重要性を説いている。そして、観察をより確かなものとするため、知覚の偏向(バイアス)への注意も怠らない。

マクルーハンのアフォリスティック(箴言集・金言集的)な記述スタイルは、フランシスベーコンに倣った、理論的知識の体系が押し付けてくる近くの変更に対する反撃であった。


アフォリズムは、通常、箴言集・金言集と訳される。

要は、体系的に論述する(演繹・帰納・弁証....)のではなく、具体的事実や根本法則を破断的に提示することによって、論理ではなく直感に訴える言論形式ではないたろうか。




私は考える。

ブログのエントリーというものは、ひとつの体系としての分量を許されない。

カテゴリーとしての連続した文脈を提出することもできるが、果たしてそれが、そのような文脈の中で読まれるかどうかといえば、それは疑わしい。

もし、私のブログの閲覧者が、私というひとつの文脈を理解してくれれば、私は次のように、ブログに書くことはなかったはず。

私は、1000件以上にも登るエントリーを読むことを閲覧者に強いることはできぬ。


私は、スポンタという固定的な文脈を知ってもらうことが、読者・閲覧者の理解に資すると思って、エントリーを溜めてきた。だが、その結果に起こったことは、逆である。

スポンタという固定的な文脈を、読者・閲覧者に強いることは傲慢・僭越である。

*

そして、ブログというフレームでは、帰納や演繹という体系・文脈として、言論を提出することはできない。

それは、アトグランス的にパソコンディスプレイで情報に触れること閲覧者の生理から言っても当然のこと。

このブログの1つのエントリーの文字数の限界は、1万である。
ということは、400字詰め原稿用紙25枚以内で、訴求点をまとめなければならない。

原稿用紙25枚という分量が、演繹や帰納に適していないことは言うまでもない。

体裁が整えられた論文を想定するならば、原稿用紙25枚というのは、演繹や帰納を構成するひとつの項目としても、足りないぐらいである。

*

ひとつのエントリーについて1万字という制限は、ブログの閲覧者の生理から言って、限界的な字数である。

そして、シリーズとしてエントリーを読み連ねるかといえば、それも極めて疑わしい。

何故なら、日記の時系列は、現在から遡る形で提示されているため、シリーズをはじめから読むということが、ネットでの習慣として奇異であるからだ。



思えば、私の中では、25枚という原稿は、極めて中途半端な分量である。

何かを論述するに、最低限必要な枚数は、100枚だろう。

そして、200~300枚が適当な枚数である。

きっちり、じっくり語る・論じるならば、500~1000枚必要だというのが、本当のところ。

しかし、そのように詳らかに丁寧に書かれたものを誰が読むのか。といわれれば、極めて寂しい状況になる。


「幻想の市民参加型ジャーナリズム」の分量は350枚である。私は仕事の合間の1カ月(1日2時間、土日は8時間)ほどで、一気に書き上げた。

そこに提示されている言論はほとんどブログにおいて提示されていたものである。
だが、それに私は満足をせず、何故そのようなものを書いたのか。
それは、私自身の体系的な言論に対する劣等感であり、アフォリズム的な言論の集積では価値を見出されぬという絶望があったからである。

*

当該原稿のブログのアクセス数は、すでに1万3千のアクセスを集めて、更新はせぬものの今だに1日の数十件のアクセスを集め、時として100件を越えることもある。
だが、それをエントリー数106で割ってみれば、理解できる。延べにして、私の作品を全部読んだ人は、122人に過ぎない。

体系的な文脈として、「幻想の市民参加型ジャーナリズム」を捉えるならば、極めてお寂しい状況となる。

だが、ひとつひとつをアフォリズム式の集積物として考えれば、状況は変わってくる。

1万3千は1万3千であり、122ではない。

そもそも、ブログという文体・文脈の中で、体系的な情報提示をしようとした私が間違っていた…。

そのことを、マクルーハンとフランシス・ベーコンは教えてくれる。



そのようなブログの文脈において、私が言えることは次のようなものである。

もし分からない語句があれば、スポンタと当該用語をキーワード入力してググルことによって、理解を深めて欲しい。


キーワードとは、アフォリズム(箴言)の核をなす単語である。その単語と私のハンドルネームを入力すれば、閲覧者の理解に資すると期待するのだ。

フランシス・ベーコンのペンネームが劇聖・シェイクスピアではないかといわれるような16世紀の人物である。グレン・グールドの友人であり、1980年に亡くなったマクルーハンの言論ではなく、16世紀の思想家の言論を引いて、ブログを論じることの意味をかみしめている…。

ベーコンは、「学問の進歩」(服部英次郎・多田栄次訳、岩波文庫p242~243)の中で次のように述べている。

それとは別の、重要な、伝達方式の区別は、アフォリズム式か、あるいは体系式かの知識の伝達である。
それについて注意すべきことには、どの主題についても、少数の一般的命題あるいは所見から、本式のできあがった学問をうちたて、それにいくつかの叙説をつめこみ、それを実例をもって説明し、もっともらしい体形式の書き物にまとめ上げることがあまりにも習慣になりすぎている。
ところが、アフォリズム式の書き物には、体形式の書き物などの及ばぬ、多くのすぐれた長所がある。

すなわち、まず第一に、アフォリズム式のものは、筆者が浅薄なひとであるか、堅実なひとであるかの試験になる。
というのは、アフォリズム式のものは、嘲笑されるようなものでない限り、諸学の真髄からつくらざるをえないからであるが、それというのも、例証のための説明も省かれ、実例をあげることも省かれ、脈絡と順序のための説明も省かれ、実際の応用のための叙説も省かれるからである。
それで、アフォリズム式のもののうちにもられるべきものは、ある適量の所見だけであり、したがって、健全で、しっかりとした基礎のある人でなければ、何人もアフォリズムを書く資格はなく、書こうと企てても無理であろう。
ところが、体形式のものにおいては、「順序と配列は大きな力を持っていて、平凡なことから取材したものにも素晴らしい光彩を与える(ホラティウス『詩篇』)」ので、解体されればつまらぬものになってしまうようなものでも、うわべだけはりっぱな学問にされるのである。

第二に、体系式のものはむしろ同意や信用を得るには適しているが、行動を指示するには適していない。
というのは、体系式のものは、一種の循環式あるいは相互的証明の方法をとり、各部が互いに説明しあい、それゆえに納得させるものであるからである。
ところが、個々の事例は個々別々のものであるから、個々別々の指示がそれにもっとも適しているのである。

最後に、アフォリズム式のものは、断片的な知識を示すので、一層深く研究するように人々を誘うが、それに反して、体系的なものは、うわべは全体のような様子であるので、研究の果てまで来たかのような安心感を人々に与えるのである。

「メディアの法則」(マーシャル&エリック・マクルーハン。訳・中沢豊 NTT出版 P346より)



私は、16世紀の思想家の原稿を読みながら、佐々木俊尚氏の言説を思っていた。

何故、研究対象・領野を共有する彼と私の言論がこれほどまでに乖離しているのか。

フランシス・ベーコンは、体系的記述スタイルとアフォリズム的記述スタイルを比較しているが、その底にある意識の違いに気づかなければならぬのだろう。



私は、マクルーハンとベーコンの言論を持って、自己肯定をしようなどとはついぞ思ってはいない。

1970年前後に「マクルーハン詣で」などとういう言葉が誕生し、メディアからひっぱり凧になったにも関わらず、学会からは冷ややかに見られたマクルーハン。そのような事情もあって、彼の思想はメディアに消費されつくすと、ブレーク後の彼の名声には翳りが差したという。

それをして、佐々木氏の名声と私の無名をメタファーするならば、それはルサンチマン(感情的)すぎるのかもしれない。

とはいえ、インターネットの存在しない16世紀の思想家が指摘したことが、新鮮に捉えるとは、なんとも痛快なことである。
否、グーテンベルグの活版印刷の普及期に生きた稀代の思想家が感じたことと、21世紀の我々がインターネットの普及において感じていることが等しいというのは当然のことなのだろう。

ベーコンの著作を一作とて読んでいない私であるが、シェイクスピアの正体とも疑われるベーコンの著作が、アフォリズムの現出であることは容易にイメージできる。

*

ベーコンのような地位やマクルーハンのような名声のない私が、アフォリズムで語っている。

何故、アフォリズムで語るのか。

それは、ブログというメディアの制約上の出来事でしかない。

だが、体系的でないことに劣等感を持つ必要は無い。

散文的であることは恥じるべきだが、アフォリズムであることを恥じる必要はない。


そして、体系的であることこそ、出口のない現在を語ることであり、明日への入り口を見失う所作なのである。


07sponta





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Last updated  2007年05月05日 18時42分53秒
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