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アルゴリズムの時代(スポンタ通信 2.0)

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Headline News

2007年05月17日
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日本新聞新聞労働組合連合会のシンポジウムが近づいている…。
主論は、アルゴリズムではあるが、新聞について考察している。



ご存知のように私は、作画ソフトを使いながら、考察を重ねている。

前回は、既存メディアとインターネットという図を描いた。

【既存メディアとインターネットの概念図】

Paper_Net_01.gif


描いたものを、時を置いて見ていると、2点の欠点が気になる。
それは、

1.メディアとオープン社会のサイズが、1:99であることが表現されていない。

2.メディアはピラミッド型のコミュニティーであり、オープン社会はアメーバ状である。


あの図の主旨は、メディアが単一のアルゴリズムで成立していて、オープン社会は複数のアルゴリズムで成立していることを表現しているに過ぎない。

今後、改訂を加えることにする。



さて、インターネット登場以前の新聞について、作図してみた。

【伝統的メディアと大衆の概念図】


Paper_Crowd_01.gif


作図の主旨は次…。

1. オープン社会は、個の発信はおろか、意志決定・代表選択のためのシステムを持たない。

2. 上記を補完するために、メディアは、オープン社会の意志決定したり、代表選択の機能を果す。


2007年、市井の個でもブログがあれば、意見を発信することができる。

ならば、オープン社会の意思決定・代表選出を代行してきた既存メディアが、いままでどおりの所作を行なうことに合理性はない。

そして、市井の個の発言がインターネットで把握するようになると、いままで既存メディアが提出してきたオープン社会の意志や代表選択が、必ずしも、オープン社会の意志・代表を反映していないことが明らかになってきた。



たとえば、公立学校卒業式の国旗・国歌報道は、その典型的な例といえるのではないだろうか。

オリンピックやサッカーワールドカップで、スタンドにはためく日章旗は圧倒的である。また、試合開始時に起立し、君が代を斉唱することは、日本国籍を持っているならば、当然の行為である。

仄聞するに、記者席に思想信条的な理由で、起立しない人がいるという。だが、その数はスタジアムを埋め尽くす人数と比べるべくもないだろう。
もし、日本国籍を持っていない人でも、他国の国歌に礼儀を示すことは国際社会にあって、当然行なわなければならないことに違いない。

そのような、国民的総意の明確な状況があるにも関わらず、NHK「クローズアップ現代」をはじめとして、テレビ報道の国旗を軍国主義と過度に結びつける言論は、どう考えても民意を反映したものであるとは思えない。

私は、そうした現象の裏に、既存メディアがかつて、左翼言論によって成立していた時代の尾てい骨を見る。




かつて、言論は、体制(保守)に対抗するために成立してきたという歴史がある。

専制主義を引きずっていた時代、議会制民主主義も専制のイメージの延長線上で形成されていたに違いない。

ならば、代議制民主主義は名ばかりのものになり、代議員や官僚たちは、自分達が新しい王様のように振舞う。

とはいえ、群雄割拠の時代のように武力で戦うことはできぬから、言論で、新しい時代の王様たちの専横を妨げるべく活動をしたに違いない。

きっと、専制を引きづった民主主義の時代には、ジャーナリズムとは野党的であることが極めて当然のことだったろう。



時事通信社の湯川氏は、「ブログがジャーナリズムを変える」(NTT出版)の中で、私のコメントを引用してくれた。

それは、「野党的ジャーナリズムから、与党的ジャーナリズム」というものである。


専制時代を引きずっていた民主主義の時代では、ジャーナリズムが野党的になるのは、極めて健全なことだろう。

だが、民主主義が新しい時代を迎えている今、いたずらに野党的言論に拘っていることに合理性はない。

否、野党的がリベラリズムと訳されるならまだしも、野党的が左翼的との意味ならば、批判されてしかるべきである。

ベルリンの壁が崩壊し、北朝鮮の拉致が発覚した今、それらの言論を既存メディアで擁護してきた過去を一切の反省しない人たちが、果たして誠実なる人たちなのか…。私は極めて疑問である。



インターネットで何が変わったかといえば、個が発信できるようになったことである。

だが、まだまだ不備があり、その不備を解決していくことこそ、インターネットの新たなる課題である。

その課題こそが、「多様なアルゴリズムの並存」によって、個が発信した情報を、インターネットの膨大な情報量の中に埋没させぬことを実現できる。


私は、インターネットの膨大な情報量の中に埋没している存在なので、その立場でできることをやっている。

だが、そのような不備をまったく勘案しないで、若者たちに、インターネットにいらっしゃいと煽る人たちがいる。

インターネットで発信したにも関わらず、無視され疎外感を感じた人たちがどのような行動に走るか…。

そのことを考えて欲しい。

*

もし、佐賀のバスジャック犯の反応予告に誰かが反応し、諭しかけることができていたら…。

そして、長崎の小6の少女の異常さにネット上な誰かが気づき、対話することで、少女の思いを受け止めていたら…。

たしかにインターネットで対話ができたとしても、犯罪そのものを制止することはできなかったかもしれない。

だが、もしそのようなことが出来ていたら、殺人事件が傷害事件、未遂事件になっていたと思えてならない。

そして、悲しいかな、事件が起きてしまったとしても、犯罪者を怨み、社会の呪うのではなく、心を痛めた・心を病んだ人たちに対して何も出来なかった自分たちを深く反省する。

そのような社会ができあがるのではないか。

おきてしまったことを批判するのではなく、社会全体が自分たちの出来事として深く反省する。その道筋からしか、悲劇的な事件を再発を防ぐことはできない…。

*

インターネットは、すべての個に傍観者であることを許さなくなったのである。



インターネットは、孤独を癒すメディアであるが、孤独を煽るメディアでもある。

対話が成立しない悲しみをこのサイトで実感して欲しい。

孤独な者たちは、対話を拒絶されて、どこへ行くのだろうか。

対話をせぬものよりも、対話を拒絶されたものたちの感情は深い…。




進化論は現在と過去を考察できねば有効なものはできぬ。フューチャーは、今起きている問題を棚上げにすることではない…。

私は苦々しく思っている。

07sponta





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Last updated  2007年05月17日 14時14分23秒
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