インプレスR&Dの「ウェブ進化論」評に見る。
マクルーハンは、メディアはメッセージであると言ったそうだが、まさにそうであると痛感している。つまり、メディアそのものがメッセージであるのだから、その文脈からはずれたものは、放逐される。☆「情報発信者が名乗りあって行う」、日本人の日本語におけるコミュニケーションというのが、すでにひとつのメディアになっている。マクルーハンの言に従うならば、メディアが成立することは、そのメッセージが明確に存在することであり、それはひとつの主観を持っていることになる。☆その一方で、「匿名な情報発信者が行う」、日本人の日本語におけるコミュニケーションというのが、もうひとつのメディアとして誕生した。その代表が2ちゃんねるである。マクルーハンの言に従うならば、メディアが成立することは、そのメッセージか明確に存在することであり、それはもうひとつの主観を持っていることになる。☆これが、2ちゃんねるを中心とする実名・匿名論争の根幹的な問題である。この二つの極とは別に、新聞社員など、組織の名をかりて、匿名で発信するものたちがいる。実名でありながらも、匿名者たちの意見を引用することで自己の主張をするものがいる。そのようなご都合主義的な成分は無視するとして、ここにひとつの例を挙げることにする。☆このエントリーを読まれている諸賢に、インプレスR&Dの「ウェブ進化論」評を読まれることをお勧めする。このサイトの編集者は、「ウェブ進化論で語られなかった大切なこと」とのタイトルを用意した。その文言は、「ウェブ進化論は、大切なことが語られていない」の反語であることは明らかだ。☆この特集の構成は秀逸である。不特定多数と特定少数というふたつのページを用意した。そして、ページ作成者のメッセージではなく、キーワードを用意した。つまり、自説を主張するのではなく、立論に留めた…。☆何故、インプレスがこのようなまどろっこしいやり方をしたのかといえば、インプレスが記名言論の世界(エスタブリッシュな既存の言論メディア)に属しているからである。だがら、先に述べたように、読者を語ることでしか、すでにエスタブリッシュになってしまっている「ウェブ進化論」を批判できないのだ。簡単にいえば、他人の営業妨害はできぬ。人のシノギに口出しをしてはならぬという職業人倫理が働いたのだ。一方の梅田氏はといえば、自らの言論の脆弱性を悟ってか、エスタブリッシュな仲間づくりに専心している…。☆だが、そのような職業人倫理で言論の世界・情報の世界がひきづられてしまっていいのだろうか。リアルなコミュニケーションでは、反論があっても、Yes, Butが求められる。実際のところ、私がリアルな世界で相手に反論する場合は、80%ぐらい相手を褒めておいて、残りの20%でようやく反論する。だが、それをインターネットでやってしまっては、訳がわからなくなる。私は、差分のない情報はスパムに過ぎぬ。と、すでに指摘している。また、差分のない個に存在価値はない。…とも。その類推からいえば、言論における擁護論および同意論のほとんどは、俳句の合評会でいえば、同巧多数の一言で片付けられてしまう。特定少数のページの意見にそれほどの価値がないことは、誰もが理解できる。それは、特定少数に登場した人たちの価値を蔑んでいるから言うのではない。もともと彼らには、職業人として、エスタブリッシュである梅田氏の批判評を書く自由などないのである。そのような場であるにもかかわらず、記名少数として参加するとともに、座をしらけさせるような反論をしなかった彼らには、それなりの評価を下してしかるべきだろう。☆インターネット上の言論が有効な議論を生むようにするには、まず、すべての参加者が、Yes.Butではなく、Butで始まる情報の口どけの悪さに耐えることから始めなければならない。そして、それを情報発信者に望めぬのならば、インテグレータが行えばいい。そのための練習課題として、2ちゃんねるの偽悪のダンディズムに慣れることが必要である。柳沢大臣の「健全」や、電通総研の「良貨」に反応した私であるが、すべての悪もしかるべく対応をしなければならないのだ。