公立小学校の卒業式の風景。
私は折に触れて、小6の娘がと書いてきたが、来月からは、中1の娘が…。と書くことになる。それを実感したのが、昨日の小学校の卒業式だった。私が、朝霞市立朝霞第二小学校を卒業してからかなりの年月が経つが、公立学校の卒業式にどのような変質・曜変があったのかを確かめていた。しかし、卒業式はなんとも感動の宝庫である。☆ハリウッドのアカデミー賞のように、スターが舞台いるのでもなく、ステージライターがコメントを書いたのでもないのに、涙が溢れ、感動が沸き起こる。☆この日、公立小学校の体育館にやってきたのは、100キロマラソンを終えた芸能人ではない。普段よりもほんの少しオメカシをした12歳の少年少女に過ぎない。しかし、そこには、いまにも泣きそうな顔がある。☆ほとんど地明かりに近い照明であり、音楽も貧相なものである。入場曲は、エルガーのPump & Circumstance 威風堂々だが、バイオリンの旋律を奏でるのは、プラスチックの縦笛。そして、ハーモニーもほとんどユニゾンに近い…。それでも、感動が沸いてくる。☆結局のところ、卒業式で参加者全員が感じているのは、「時間」のカタシスである。時のカタルシスは、感情のカタルシスや言葉のカタルシスを遥かに越える絶大なものである。☆一人一人のこどもたちがそれぞれの内面・感性を抱えて入場してくる。今にも泣きそうな子。泣きたいのをこらえている子。泣きたい気持ちを喜びで隠そうとする子。初めての環境に対応できずに、閉じてしまっている子。どんな表情をしていいか分からず、困っている子。こんなことどうってこともないと、平然を装っている子。平常心を失わぬ子。平常心を失っている子。今よりも、明日を見据えている子。今よりも、過去を振り返っている子。重い物を背負っている子。重い物を投げ出した子。何も背負わせてもらえない子。愛されている子。愛されていない子。愛されすぎている子。愛も知らずに育った子。愛されていることが嫌な子。自分が好きな子。自分が嫌いな子。自分を見せたい子。自分を見せたくない子。人生の意味を知ってしまった子。人生の意味を知らずに暮らしている子。人生の意味を避けて暮らしている子。彼らの入場パフォーマンスは、すべてを表現している。☆100人近いこどもがいるのだ。彼らの今後の人生も、日本人のばらつきと同じようなものとなるに違いない。私は、「格差是正」などということで、若い人たちの自由が束縛されることがないように、今後も言論を提出しつづける。日本社会における多様性の確保とは、格差の是認からしか生まれない。そして、多様性はそもそも、多様な価値観・尺度を認めることから始まる。冠に経済がついているのに、それを明らかにしない格差などという言葉に騙されてはいけない。…幸い豊かな日本である。多くの人たちが、「人はパンのみに生きるにあらず…」を実践している。私もまた。生きる糧を求めるために、ここに書いていない。人が糧を求めて生きるとするような「格差」論議は、そろそろやめにしてもらいたい。☆彼・彼女のきっと内面は辛いんだろうな。大丈夫かな…。と、思う子が何人かいる。その印象は、悲しいかな、6年前に感じたものと同じ。だが、クラスメートの父親であり、地域のおじさんでしかない私には、何もすることはできぬ。それを知ることが、娘に体験させてもらったこの六年間の意味だと思う。☆卒業式は、公立教育の軋みを今回も見せてくれた。校長は、ある演劇を紹介し、自分の境遇を嘆かず、人生を諦めないで、明るく生きるべし。と説く。来賓の中学校長も、君たちはすばらしいと誉めそやす。だが、彼らの言葉が、私には、悩むことさえ否定している冷たい言葉たちだと感じる。煩悩あっての悟りである。劣情を乗り越えてこその美しい心である。葛藤や逡巡を考慮の他にする言葉たちを卒業生たちに送る教育関係者たちの、非情を私は痛切に感じる。彼らがこどもたちに投げかけた言葉は、東条英機が集団自決を促すに至った発言と批判された「生きて捕囚の恥づかしめを受けず…」というのと罪は同じである。葛藤や逡巡することを禁じられ、明るく生きることを刷り込まれたこどもたちの、やり場のない状況を思う。学校の先生の言葉などに縛られてはならぬ。悩んだって、苦しんだって、落ち込むときがあったっていいんだ。明るくなくたっていいんだ。明るくありたいと願えばいいんだ。☆スマイルアゲイン。♪自分が とてつもなくちっぽけに見えることが あるよね自分だけが 悪者みたいに思えるときが あるよねもう二度と 心から笑えなくなるんじゃないかとこわくなるくらい悲しくなることが あるよね…その言葉たちのあとに、卒業生と在校生が歌う歌の歌詞たちは、公立学校の教育関係者のものとはまったく逆で、極めて内省的であり、私には祝典にはふさわしくないものと感じられる。だが、歌の作り手の方が、現実を見据えているのだろう。誠実なる作詞家たちは、今を見ないことには、時代に受け入れられる作品など作れないのだ。だが、私は思う。歌こそ、理想を歌え。輝かしき未来を語れ。歌は、現実に埋没するために謳われるのではない。現実を越えるため、明日を目指すために謳うのである。卒業式で謳われるもっともらしい歌よりも、昔小室哲也がつくっていた唄たちのほうが、よっぽど卒業式にふさわしい。♪夢は見るものじゃない。つかむもの。☆最後に、PTAを代表して会長が挨拶をした。彼女は農家の嫁で、地域活動もしている。彼女は、この6年の時事ニュースから、九州の漁師で30数日間も漂流した後救助された人の言葉。「人間というのはなかなか死なないものだ」というのを引用した。彼女はPTA会長として、クラスメートのお母さんの代表として、中学・高校で卒業生たちが体験するかもしれぬ、いじめ自殺や非行・逆ギレ・引きこもりなどについて、何かのメッセージを紡ごうとしたに違いない。心で生きようと努力しないでも、人間には生きていこうという強い意志がある。心が生きることを諦めてしまっても、人間とはそう簡単に死ねるものではない。勿論、がんばって生きていこうという意志は大切だが、それがつまづくこともあるし、それはそれでいい。何よりも、自分で自分の辛さをつくってはいけない。そんなことを彼女は訴えたかったのだろう。リアルな現実とは、遠いブログというところで一人語りを続ける私よりも、彼女は直接的であり、私よりも尊敬される魂である。☆我が妻は、彼女のスピーチが長いと不満を言った。そして、私が感じたようなことを、卒業式の会場のどれほどの人が受け取ったのかは分からない。だが、私にとって、彼女こそ清廉な人であり、いまという時代と誠実に向き合っている。☆いま、このときにおいて、自分に何ができるか。そして、そのために自分はベストを尽くしたか。私は、小学校の保護者会活動や学校とのコミュニケーション、そして、地域活動において、3年ほどでほとんど燃え尽きてしまった。そのことは、私の過去のブログから読み取ることができるだろう。もちろん、スポンタ・ローキックなどとググってくれても一向にかまわない。追記:親ばかの私の娘への感想を一つ。卒業式には、切り返しのカメラがあり、卒業証書が授与される表情が、スクリーンに投影されていた。娘は、化学物質過敏症対応で仇敵ともなった校長からかしこまって賞状を受け取ると、校長からの「おめでとう」の言葉に、過不足ない満面の笑みで対応した。素晴らしい。段取り芝居になっていない。別れの切なさで感情を横溢されたり、過度の緊張で訳が分からなくなっていたり、そのようなことで、一本調子になりがちなこの状況において、自分の感情をフリーにして、明確に対応している。これこそ、私が彼女に求めてきた最大のものといってよい。形ばかりの中学受験になってしまい、成果は得られず、小学校のほとんどの仲間たちと一緒に中学に上がることになる。その自由なる感情のありかを、次の3年でなんとか表現に結び付けて欲しいものである。