「四月の雪」ジャージャー麺と伸びた鉢植え。
このエントリーは、ペ・ヨンジュン氏の公式サイト掲示板へのエントリーの採録である。私は、俳優ペ・ヨンジュン氏を尊敬するとともに、中高年女性たちがパソコンに親しむきっかけとなっている状況が、インターネットにおいて、極めて重要な意味を持つと確信している。そして、SNSの中で言論がどのように動いていくかについても、極めて有用なリファレンスとなりうることを実感している。それを具体的にいえば、映画「四月の雪」の劇場公開版とディレクターズカット完全版をめぐる賞賛派・擁護派・否定派・並立派の摩擦・対立である。私は、女性小説家の場合と同じく、自分の考えを真摯に提出することによって、摩擦が生まれている。その仔細は、ここでは表現しないが、きわめて示唆的である。対立する言論に、どのように人は接するのか。私にとっても、他者にとっても、それは様々であり、学ぶべきことがまだまだ多々あることを実感している。このような魅力あるソシアルトライアルに背を向けて、インターネットでの対話を望まないエスタブリッシュたちの暗愚を思う…。以下、採録。---------------------------------------------------------------------------------【「四月の雪」ジャージャー麺と伸びた鉢植え。】※ ここまで書くのも、大人気ないと思うが、このショットがリトマス試験紙となる。☆引越し荷物が画面の真ん中にあり、下手には、インスがいて、上手には吐き出しの大きな窓がある。このカットをどのように感じるか…。鑑賞するか…。判断するか…。それによって、1. まっさらな気持ちで、作品を鑑賞しているか。2. 全体の中での部分を総合的に鑑賞できているか。というあるべき鑑賞者であるかどうかが試される。☆それは、あくまでも、私が、あるべき鑑賞者であると定義するものについてである。自分を選民意識を持つ観客であると定義するならば、私と魔逆のことになる。とはいえ、自己のアイデンティティーを保つために、選民意識を持つことは許される。だが、それを客観視・相対化できぬならば、他者に何物かを語る資格はないと、私は考えている…。ここにおいて、あるべき鑑賞者と選民主義的観客とふたつの概念を提示しているのも、自らの立場を客観視することと相対化を試みてのものであることを、理解していただけると嬉しい。※ 現実には、悲しい哉。このように書いて尚、さまざまなコメントが寄せられるだろう…。☆監督もカメラマンも、ジャージャー麺のアップを提示したのではない。鉢植えが伸びいてるところのアップを提示したのではない。もし、あのカットの秒数で、伸びている鉢植えや、ジャージャー麺に目が行くならば、鑑賞者がそのように感じてしまう何物かをすでに纏っているということだ。☆かの国の人ならば、引越し荷物を前に麺を食べているのならば、ジャージャー麺を食べるインスは当然のように受け取られるのだろう。だが、それは、引越し荷物ですでに表現されていることであり、ソバがジャージャー麺であることに、さほどの意味はない。そして、ジャージャー麺とはブラックデーにおいて、バレンタインデーでもホワイトデーでも、相手にされなかったもてなかった人たちが食べるものだという。私には、ジャージャー麺から、インスのおかれている状況を悟ることはできなかった。まして、画面の点景でしかない鉢植えも、伸びたところに意識を集中してしまうならば、このショットにおける重要度の勘案が抜け落ちている。☆このショットにおいて、ジャージャー麺も鉢植えが伸びていることも、部分でしかない。このショットで表現されている全体とは、引越し先でのすがすがしい雰囲気である。新しい生活がスタートする気配である。カットは認識時間によって、その意味も変わってくるが、あのカットの所要時間をいかに延ばしたとしても、麺の種類は分からぬままだし、鉢植えの重要度も上がりはしない。☆ジャージャー麺を食べていることが重要なのではない。そのショットにインスが存在することが重要なのだ。では、インスに何をさせるか…。引越し荷物を解かせてしまったら、インスは日常に埋没してしまう。ただただ、座っているだけでは、インスは停滞してしまう。食べるということは、生活をする意志であり、日常の姿である。確かに引越しソバを食べている。だが、引越しソバを食べることが重要なのではない。インスが食べるという様子が、窓外の風景と、引越し荷物とともに描かれる。それが、あのショットの意味なのである。☆私は、シナリオを読んでいない。ト書きには、どのように書いているのだろうか。引越し先のマンションの一室で、インスがジャージャー麺を食べながら、一人身をかみ締めている。窓辺には、かつてソヨンが送った植木が置かれている。「枯らさないでね」と、インスからもらった鉢植えはすでに伸びている。時は流れたのである。ではないはずだ。きっとシナリオは次のようである。引越し先で荷解き前のマンションの一室のたたずまい。インスがいる。前者であれば、・部屋の全体・インスのバスト・ジャージャー麺を食べる・窓辺の鉢植え~伸びた様子・インスの表情と、映像が編集されているはずである。だが、監督とカメラマンは、ワンシーン・ワンカットを選択したのである。☆この間、「冬のソナタ」のアナリーゼを続けようと、シナリオ採録本を、高校時代の部分をすべて読んだ。シナリオはよく書けている。だが、それは、実際の映像作品と、あまりにかけ離れていることを感じさせる。シナリオは作品の背骨なのだ。レオナルド・ダ・ヴィンチが、骨格や筋肉の構造を突き詰めていった気持ちはよく分かる。だが、そこには、皮膚もないし、体温もない。骨格や筋肉の構造を知ることで、人間が分かったような気になることは浅薄なことである。☆作品に何が描かれているか。私には、それしか興味はない。私は、BYJのゴシップの殆どを知らぬし、韓流ドラマのほとんどを知らない。この公式掲示板にとって、私が、そのような異分子であることを認識した上で、笑っていただければ幸いである。--------------------------------------------------------------------------------きっかけとなったエントリーは、現在10000のアクセス数を越え、コメントは私の返事も含めて、60を越える。その中には、当然のようにスパムのようなものもあるが、その充実度は、ハテブコメントの比ではない…。何よりも、テキストたる「四月の雪」を30回以上見たコメント者も珍しくない。極めて高いレベルの議論がされている。こんな素晴らしい場所はない。因みに、私は、「四月の雪」のディレクターズカット版を一度、劇場公開版を一度。計2回しか観ていない…。