アルゴリズムの時代00:ネット時代に衆愚はない。そして、衆愚を語る者たちの陰謀。
佐々木俊尚氏の「次世代ウェブ・グークルの次のモデル」(光文社新書)を読んでいる。私は無名氏に過ぎぬが、彼との少なからぬ因縁を感じている。それは、GripBlogに関わる「ことのは」のM氏関連の擁護論陣を彼が張ったこと。そして、オーマイニュース日本版に関して、彼が、イデオロギッシュな視点でカイゼンを求めたことについてである。*前者については、日本において言論の自由は尊重されるべきだけれど、無制限にそれが尊重されるのではない。殺人や自殺を肯定する言論は制限される。ならば、それに連なる言論は制限されてしかるべき。同様に、殺人集団に加わっていた人間は、同様な過ちを繰り返さないという意志を見せることによってのみ、言論が許されるべきであって、殺人集団に加わり、その言論部門として活動しながらも、一切の自己批判をしないM氏に言論の自由はない。というのが、私の立場・考えである。佐々木氏は、GripBlog氏、歌田明弘氏(週刊アスキーコラムニスト)、R-30氏とともに、M氏の擁護論陣を張った。私は、パソコン通信時代を思い出し、カルト宗教の蔓延がネットの自由な言論をいかに妨げるかということを痛感してきたので、トリル氏などの指摘に背中を押されながら、彼らの言説の危うさをネット上で批判してきた。*後者については言うまでもない。ベルリンの壁崩壊後、右左という視点は不毛化している。ネット上のメディアが存続できる唯一の視点は、時事通信社の湯川氏が唱えているように、「対話を継続すること」である。運営の透明性・編集の透明性・市民記者との対話…。それらの問題を私はネット上で提示したが、一切の対話は生まれなかった。フランスの社会思想家のジャック・エリュールは、「対話が終わったときに、プロバガンダが始まる」と言ったという。*私は思う。対話をしないメディアは、ピンボンダッシュをしているに過ぎず、報道機関ではなく、プロパガンダメディアなのだ。「みんなが市民記者」をスローガンではじまったオーマイニュース日本版も、そのひとつであることは指摘するまでもないし、私の指摘に一切答えない佐々木氏を考えれば、彼の言論もオーマイニュースが仕組んだ言論誘導のひとつでしかない。☆さて、話を戻そう。佐々木氏の著作「次世代ウェブ・グークルの次のモデル」の174ページには次のようにある。以下引用。たとえばアルファブロガーとして知られる松永英明は、「備忘録ことのはインフォーマル」という自身のブログでこう書いている。「Web2.0」の背景にある考え方。」という2006年9月28日のエントリーだ。 M氏の言論を受けて、佐々木氏はこのように続ける。つまりマーケティングや意思決定など、何らかの社会の傾向を調べたり、あるいは多数決による世論などを定めるのには、集合知は有効だ。しかし、「真実」を探求する方法としては、集合知は誤ってしまう可能性があるのである。島田裕巳氏が、中沢新一氏批判の本を上梓されたという。その理由は、中沢氏の言論が、いまだにオウム真理教の信者たちの還俗を阻んでいるからだという。私は、一貫して、「M氏には地下鉄サリン事件でご主人を亡くした高橋シズエさんの前に、言論の自由はない」と主張している。そして、それが衆愚に関するものであり、それが、オウムによって殺された30余人の方々をメタファーするのならば、その過ちを指摘しなければならぬ。中沢氏と佐々木氏は同じことをしている…。☆さて、M氏と佐々木氏の言論。読者の方々は納得されているだろうか。もし、彼らの言論に納得されているならば、小学校時代の学級会の経験を忘れているに違いない。*議案が提出され、解決策の選択肢が提出されたら、即、多数決をとるなどということはなかったはずだ。たとえば、「クラスのいじめられっ子の○△君を学級委員にしよう」と、誰かが提案したら、即、採決などということがあっただろうか…。普通は、そこで議論・対話がはじまる。誠実な先生は、「あなたたちは、本当にそれでいいの? ちゃんと話し合いなさい」と叱ったはずである。小学校の学級会は、小学生たちの知性によって営まれており、衆愚とは無縁である。なんて、こどもの日にふさわしい言論っす。(^^;)*私があえていうまでもなく、インターネットの最大の利点はインタラクティブ・対話である。(情報共有・ログが残ることも、対話の中の一つ。過去形の対話でしかない)*なのに、エスタブリッシュは既得権益が損なわれるとして、対話に応じない。そして、被エスタブリッシュは傷つくことになれていないから、対話を始めない。☆それは、「次の時代は、智民主義の時代である」と唱える公文俊平氏の言論も同様である。そもそも集合知が衆愚に陥るという考え方が、選民主義的なのである。そのようなネット以前の価値観を、ネットの21世紀に適用することに合理性はない。*公文氏は、知ではなく智と記述することにより、Knowlege, Intelligenceではなく、Wisdomというニュアンスを表現したかったに違いない。だが、いま気づくことは、集合知というものが、Knowledge, Wisdom, Intelligenceなどとうい静的なイメージではないこと。集合知というものは、動的なものであって、動的であるがゆえに、万能な知性を保持する。動的とは、知性と知性がコミュニケートすること。つまり対話である。多くの宗教で、固定的な知であるはずの経典が、何故、説話体になっているのか。※特に、仏教・儒教では、弟子との対話体で宗主の思想が語られる。それらは、すべからく叡智というものが、固定的なものではなく、知性と知性が対話(コミュニケーション)することによって成立することを物語っているといえるだろう。*私には、「集合知が衆愚に陥る」という考え方に違和感があった。私はダウン症の青年とバンド活動をしていたが、彼の参加によってバンドが衆愚に陥るなどと考えたことはなかった。逆に、彼から音楽の意味、ステージの意味を教えてもらった。勿論、非ロゴス的なコミュニケーションにおいてではあるが…。*そのような経験から紡ぎ出される思考の過程でたどり着いたのは、ロゴス(言語的)的な集合知は棘棘しいものであり、非ロゴス的な集合知は違うものである。と、考えた。だが昨日、ある気づきを得た。「ユングの神秘主義を出す必要は無い」と、皮肉にも神秘主義者であるはずのM氏の言論に触れて気づくことができた。そして、インターネットにおける言論・情報の理想を次のようにまとめる。すべての情報を共有し、ステークホルダー(自己の利害)を乗り越え、ルサンチマン(怨念)を乗り越え、対話・議論を尽くした上で、採決をしなければならぬ。365日24時間の対話が可能なインターネットでは、その実現が可能である。365日24時間の対話を施行せずして、採決をとるならば、その採決の結果が真実とかけ離れるのは当然である。グーグルのロボット検索は一切の対話を望まない。検索に対話が付随しないから、「日本人がブードルと羊の見分けがつかない」などというデマが、諸外国に伝わることになる。テレビという極めて絶大なオーソライズパワーを持つメディアが誤診したら、その誤診が広がってしまう。グーグルは、テレビ局のオーソライズパワーを無批判に肯定している。私は、川上麻衣子の出演した小堺一樹のサイコロ鼎談番組をオンエアで見ていた。私は、「ペットが通販で宅急便でやってくる」という発言に疑問を思った。このエピソードは、ネイルサロンの楽しいジョークのひとつであり、真実性を持って流通すべき情報ではなかった。もちろん、諸外国のメディアたちも、楽しいジョークとして楽しんでいるに過ぎないのだが…。☆衆愚などというが、異種・多様な人たちが集まっての対話がどうなるか、考えてみればいい。たとえば、政治家・役人・裁判官・弁護士・新聞記者・魚屋・肉屋・パン屋・主婦・こども・障害者のコミュニティーがあったとする。そこで、365日24時間の議論・対話がなされる。たとえば汚職の議題が出たとする。まずは、ステークホルダーから、政治家と役人に対して、新聞記者と弁護士が糾弾する。それを裁判官が裁定しようとする。だが、そのような人たちだけで、過半数を得ることはできぬ。そこで、政治や役所のしくみが分からぬ魚屋肉屋パン屋主婦こども障害者が言論に加わらなければならぬ。そこで、即、採決がとられれば衆愚に堕ちる。だが、ネットではそういう必要はない。365日24時間対話・議論を続ける。…まるで、十二人の怒れる男のように。時を重ねても、魚屋・肉屋・パン屋・主婦・こども・障害者たちが、その能力の限界により、社会学的な真理を理解できぬことはありうる。だが、発言者が、正の言論を司っているのか、偽の言論を操っているのかは、言論の内容を理解していなくとも把握できるはず。障害者たちの直感的人間観察力の鋭さはいうまでもない。そして、政治家も役人も弁護士も新聞記者も対話・コミュニケーションの中で、お互いのステークホルダー(利害関係)を越え、ルサンチマン(過去の怨念)を越えていくに違いない。*もし、読者が、そのようなイメージができぬならば、それは、ステークホルダーやルサンチマンを越えていない、まだまだ時間が足らぬ時期を想定しているに過ぎない…。☆アルゴリズムとは何か。それは、対話を避けて、演算ですませることである。そのような功利主義に騙されてはいけない。そこにこそ、グーグルが、神として君臨できぬ脆弱さがある。グーグルは、人知でも、集合知でもない。単なる恣意的なアルゴリズムの集合体である。追記:ネット時代に衆愚はない。もし、衆愚に感じられるとすれば、それは、対話システムの不備を表現している。