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脳卒中と看護学

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2013年06月04日
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社会全体でバリア除く

 Aさんは、ある難病と闘う患者さんで、明るく前向きで、何事にも一生懸命に取り組む青年です。あるとき、彼が深刻な顔で「障害者は性的な欲求を持ってはいけないのだろうか」と言い出したことがあります。
 きっかけは、Aさんよりもずっと重度の障害を持った人が、自分のホームページで性に関する悩みを告白したことでした。そこには赤裸々な悩みがつづられていたのですが、その感想をめぐって、身近な人と意見が対立したのです。最後には、障害者が結婚して子どもをもうけてもよいのか、社会の負担を増やすだけではないかという議論になって、Aさんはすっかり落ち込んでしまいました。
 恋愛も結婚も、子どもをもうけることも、人間として自然な欲求であり、享受できる権利です。障害を理由に制限されるものではありません。
 老若男女、障害者と健常者。立場や意見を異にする人たち。種々多様な人たちが、互いに差別しあい隔離されて過ごす社会は「弱くてもろい社会」です。多様な存在を当然のこととして受け入れ、ともに参加する、強く豊かな社会を目指していかなければなりません。このような考え方をノーマライゼーションといい、1981(昭和56)年の国際障害者年の行動計画にも盛り込まれました。
 知り合いとの議論の中で、Aさんが落ち込んだのは「障害者は特別扱い」という言葉でした。障害者という立場に甘えていると言われたAさんは、自分の生き方に自信が持てなくなったのです。
 もちろん、健常者に許されないことが、障害を持っていれば許されるという法はありません。障害者と健常者は、してはいけないことについても平等です。
 しかし、人間として当然の権利に到達するまでの間にバリアがあるのなら、それを取り除くのは障害者の自己責任ではなく、社会全体の責任であるべきです。たまたま障害を得た人が、社会に負い目を感じる必要は決してないのです。
 一つの基準や価値観を満たさない存在を「落伍者」と位置づけ、切り捨てたり隔離したりすることは簡単です。しかし「勝ち残り組」のなかで再び同様の「切り捨て」が繰り返されれば、最後にはだれも残りません。
 多様な価値を認めあい、だれもが社会参加できる価値を発見し、つくり上げていくことこそが「ノーマルな社会」への道しるべなのではないでしょうか。
 (鹿児島大学医学部リハビリテーション科・東郷伸一)
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WEB master 註:何かと誤解があるようなので補遺しておきたい。
 ノーマライゼーションとは、障碍者がリハビリテーションを経て"正常に"なっていくことではないのか?という誤解がいまだにあるようだ。なるほど、障碍者は"ノーマル"ではないという御意見なわけだ。では、そう言うあなたは"ノーマル"なんだろうか? いったい、どこで線を引くのだろうか? そういう曖昧な、根拠のない偏見ののさばる社会こそが"アブノーマル"なのであり、それを是正していこうというのが"ノーマライゼーション"なのだと答えたい。
 セクシャリティの問題についても、簡単には答は見つからない、とか、そういう話題を例示すれば"引いて"しまう、という御意見を早速いただいた(苦笑)。ありがたいことなので、お答えしておきたい。"引いて"しまわずに済むような例を挙げれば、こういうことだ。ここに、車椅子の学生がいたとする。テストの点数を取れる子で内申書の成績も良く、上の学校への進学を希望していたとしよう。受験の日、彼の受験場が階段で上るしかない上階にあったとする。一人で車椅子で来た君の責任だから受験させない、などという話になれば、誰だって憤慨するだろう。原則論として、言いたいのはそういうことだ。セクシャリティの問題が、いかなSensitive matterであったとしても、まずはこの原則論を忘れずに糸口を探すべきだとWEB masterは考える。
 社会全体でバリア除くということ(この見出し自体は新聞社の方で付けてくれるのだが)についても触れておきたい。本当に、社会がそんな責任を負わねばならないのかという疑問の声もあるようだ。これについては、前段の受験生の例を以て"Yes"と答えたい。やる気のある者にチャンスを与えないのは社会全体の損失であるとも言えるからだ。
 しかし、本文中に"してはいけないことについても平等"と書いたことからも分かっていただけるように、障碍者に自己責任が存在しないわけではない。卑俗な喩えをすれば、障碍者が引け目を感じて引きこもらざるを得ない(ゆえに出会いの機会がない)ような社会の在り方は、社会全体の責任として改善されるべきだが、個々の障碍者の相手を社会全体で見つけてやる必要は無い、それは個々の自己責任に帰するべきだ、というようなことだ。
 グローバリゼーションだの何だのということが自己責任論とペアで語られ、"社会全体の責任"が矮小化されつつある(と感じられる)昨今、こんな言い方で、WEB master の真意を分かっていただけるだろうか...。
(この項文責=
WEB master,010609 記す)

 

http://www.kufm.kagoshima-u.ac.jp/~rehabil/koza/window/010606.html

 






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最終更新日  2013年06月14日 23時19分03秒
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